トリオ・フィボナッチ来日公演

野々村 禎彦

 現代音楽を専門に活動するカナダのピアノトリオ、トリオ・フィボナッチの日本公演最終日を聴いた。前半1曲目の鈴木治行《比率》(2003)は、音符を確率的に決めた部分、半音階スケールを音価は自由に奏する部分、ハーモニクスの持続音が続く部分の比率が楽器ごとに独立に変化する、抽象的なアイディアの比重が高い作品。続くジョン・レア《Lautari》(1999-2001)は、速く技巧的な部分と遅く抒情的な部分が交互に現れるハンガリーのジプシー音楽の構成を、民族的な素材は用いずに抽出した作品。変拍子フレーズのオクターヴ・ユニゾンが頻出するあたりは、プログレを連想させる。後半1曲目の小櫻秀樹《I arise from dreams of thee》(2003)は、19世紀初頭の恋愛詩に想を得たストーリーを持ち、全楽章にロマンティックなタイトルが付けられているが、さまざまな特殊奏法と既存の現代曲をカットアップしたような曲想との落差は大きい。最後のカーゲル《1楽章のトリオ》(2001)は、新作カンタータの演奏家の大半が誘拐され、残った演奏家による上演が犯人グループの電話で遮られ続ける、という設定の舞台作品《演奏会場での誘拐》(1998/99)の一情景を、細部を膨らませてこの編成に移した作品。シュトックハウゼンの《光》シリーズとそこから派生した器楽曲のような関係にある。

 表面的な技巧に走ったレア作品はいかにもご当地作曲家の披露だが、「ジプシー音楽」が出発点なので、コンセプトとしては一貫している。カーゲル作品は、原曲の設定から予想される通り、伝統的な要素を裁断し異化する音楽だが、音だけでも情景が眼前に浮かぶ60〜70年代の強烈な訴求力に欠けるのはもちろん、その後90年代半ばまでの擬古典的で緊密な書法やコンセプトを明確に絞り込んだインパクトもなく、枯渇は否めない。演奏では、ざらついた硬質の音色でぐいぐい弾き進め、コンクリートブロックで囲まれたステージでも痩せないアンサンブルを作ったドローム(Vn.)が目立った。小櫻作品の曲想とはかけ離れた内的プログラムは、ピアノトリオという編成に否応なく付きまとう19世紀的な要素を、音楽自体とは切り離して取り込むための防波堤とみなせるが、この編成の伝統性を自覚した上であえてこの編成を選んだ彼らは小櫻の作曲意図を的確に見抜き、抒情的な音形が現れても突き放したアプローチを貫いた。また、陶磁器や角材や紙片をピアノに出し入れし、弾きながら動かす即席プリパレーションを、通常の奏法と違和感なく取り込んだリスティック(Pf.)のセンスも特筆したい。

 筆者には、この日の4曲では鈴木作品が最も興味深かったが、演奏には唯一不満を感じた。特に前半、確率的に選ばれた音の線が織りなす偶然の対位法はぎこちなく、対比的に挟まれるピッツィカートのトゥッティばかりに焦点が当たる。各瞬間は独立な線が長い時間スケールで絡み合う、作曲者が望んでいた表現には程遠い。後半、音価の自由な部分の比率が増えるにつれて縦が揃ったまとまりのある音楽になったのも、作曲意図とは正反対だろう。他方、アンコールのアイヴズのトリオの第2楽章<T.M.I.A.J.>では、彼らは鈴木作品前半と共通する表現を難なくこなした。ヴァイオリンとピアノの右手が同一音域で互いに無関係な旋律を奏し、ピアノの左手はどちらとも無関係なクラスターを低音域で叩き続け、チェロが両者の中間の音域で全体をまとめたり、さらに混乱させたりする。ふたりの音をよく聴き、絶妙な間合いでカオスとコスモスを統合したプリン(Vc.)は特に見事。

 むしろ共通点の多い鈴木作品とアイヴズ作品の演奏の大きな落差は、アイヴズ作品の個々の旋律は調性的だが、鈴木作品ではたまたま選ばれた横の線に過ぎないことが原因だと思われる。彼らの音楽作りの出発点はあくまで旋律を歌わせることにあり、その上に特殊奏法や現代的なコンセプトを乗せていく、というアプローチで一貫している。鈴木の作風は、伝統的な音楽的持続を前提にした彼らの方向性とは相容れなかったようだ。ただし、アイヴズ作品の調性的で把握しやすい旋律はカオスとコスモスの対比を際立たせ、曲想も編成に対応している。これに対して、鈴木作品はコンセプトこそ興味深いものの、編成の選択に「委嘱されたから書いた」以上の必然性が感じられないところに限界がある。とは言っても、自発的にはこの編成を選ばない鈴木のような作曲家に委嘱を行い、第2次世界大戦以降は忌避されてきたこの編成の可能性を探る活動の意義は認めたい。

(2003年6月29日 代官山クラシックス

(c) 2003 Yoshihiko NONOMURA
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