黒田京子、平野公崇デュオ

石塚 潤一

 2003年7月24日に大泉学園のジャズライブスポット、in Fにて行われた黒田京子平野公崇(まさたか)によるデュオは、クラシック演奏家が即興を通し、クラシック外の音楽といかに関わっていくかを考える上で、極めて重要な示唆を残したライブであったといえよう。

 ジャズピアニストの黒田京子は、ここin Fにて、5月の村田厚生(トロンボーン)とのデュオを皮切りに、クラシック、それも主に現代音楽演奏で活躍する演奏家との共演シリーズを続けている。黒田と言えば、ジャズ演奏の現場で鍛えられた鋭敏なリズム感と、ジャズ的なハーモニーのみに囚われない豊かな和声感覚とを併せ持つ優れたピアニスト。内部奏法等、ピアノを使った特殊奏法はもちろんのこと、ハーモニカ演奏からヴォイスパフォーマンスまで行う彼女であるが、それらのパフォーマンスが、どれも膨大な耳の教養に裏打ちされているが故の説得力を持っているところが素晴らしい。常に柔軟性をもって音楽へと接し、自らの音楽を一箇所へと縛りつけることをよしとしない黒田であるゆえ、未知の現代音楽演奏家との共演は、自らの表現の欲求に従う中で、極めて自然に発想されたものなのだろう。

 シリーズ第2回目となる今回、黒田の共演者として登場したのは、サクソフォン奏者平野公崇である。パリ国立高等音楽院に学び、サクソフォンと室内楽の一等賞を得て卒業し、1996年のJ.M.ロンデックス国際コンクールを制したクラシカルサクソフォンの新鋭。クラシックを中心にオーケストラへの客演も多く、現代音楽演奏にも熱心に取り組む演奏家である。しかしながら、平野を一層興味深い存在としているのは、パリ国立高等音楽院サクソフォン科卒業後、即興演奏科へ入学し首席卒業しているという経歴だろう。多くのクラシック奏者にとって縁遠いものとなってしまった即興。そのような中で、世界のクラシック音楽教育の拠点ともいうべき機関の即興演奏科では、今、何が教えられているのか。そして、ここで平野はどのようなイディオムを身に付けたのであろうか。黒田ならずとも興味を惹かれるところであろう。

 演奏が始まると同時に、点描的なピアノと、それに支えられた弱音のサックスによる息の長いフレーズが作る緊張感に息を呑まされた。サックスの楽音に息によるノイズが巧みに混入され、平野が意図して選択した音色を極めて高精度にコントロールしていることに驚かされる。思えば、2002年のコンポージアムにて、湯浅譲二のアルトサックスと増幅器のための作品《私ではなく、風が・・・》を、それまでのどの録音よりも息のノイズを目立たせて吹き切り、この作品の演奏史に新たなページを付け加えたのが他ならぬ平野ではなかったか。第2セットでは、バリトンサックスに持ち替え、スラップタンギングによるユーモラスな打楽器的効果を場へと持ち込み、ピアノの胴体を叩き間歇的に声を発する黒田と戯れたかと思えば、エンディングに配置されたフォルティシモのクライマックスを、延々と続く循環呼吸で支えて、観客の度肝を抜いたりもする。こうした細工が、取って付けたようなものにならず、「これしかない」と思わせるリアリティを伴っているところにこのデュオの真価が感じられる。

 既成楽曲を素材にした即興も行われた。第3セットでは、チャールズ・アイヴスの室内管弦楽曲《答えの無い質問》が、第5セットでは、クルト・ヴァイルによる《ベルリン・レクイエム》の一曲:<赤いローザ>が題材となった。《答えの無い質問》では、オリジナル曲では舞台裏のトランペットで提示される5つの音(B♭、D♭、E、E♭、C)のモチーフが自在に展開される。オリジナル以上に調性感が薄い演奏が繰り広げられ、黒田による霞がかかった弱音での爪弾きに、平野がアルトサックスの重音奏法で寄り添う形となった。ここで聴かれた美しい響きは、あらかじめ作曲されていたかのような説得力を持ち、前半の4セット中の白眉と言って良いものだ。<赤いローザ>では、ヴァイルによるメロディは終結部にて演奏され、無調によるフレーズが作り出す冒頭の冷ややかな手触りが、結尾に置かれたメロディへと向かって融解していくかのような趣向。中間部には、黒田がピアノを弾きつつブレヒトの詩を朗読する箇所があり、ここで平野は循環呼吸によるロングトーンで朗読へと対峙することで、場の緊張感を支えていた。

 さらに興味深かったのは第6セットであろう。このセットの途中、黒田はグランドピアノの弦の上へと譜面を投げ入れた。この状態でピアノを弾くと、細かく振動する弦がそれぞれに異なった周期で紙を叩き、ビリビリとささくれ立ったノイズを発生させる。この単純な仕掛けとともに、黒田は聖歌風のメロディをハーモナイズして強奏し、ここに平野がバリトンサックスの倍音を駆使したノイジーなプレイで加わると、PA未使用のライブ演奏であるにもかかわらず、あたかもモジュレーターで変調したかのような歪んだ音像が出来上がる。黒田の弾くフレーズが調性的かつ単純であるがゆえに、この手法の効果は一層鮮烈なものとなった。こうした効果が即興で飛び出してくるセンスも賞賛に値するものであるが、終結部にて、ゆったりしたメロディがサックスへと戻り、楽曲に構成感を持たす手腕も見事である。

 後半のセットが始まる前には、平野に対する質疑応答の時間も取られた。ここでは黒田自身によってパリ国立高等音楽院即興演奏科での日々について質問され、平野は冗談交じりに、音楽院の即興科では作曲家が教授として指導に当たっているが自分の音楽観を押し付けるような指導はないこと、授業ではダンサーを招く場合もありダンスに合わせて即興することもあったこと、卒業試験では自らの即興観を審査員に向かって30分近く説明しなくてはならないこと、などを語った。当日、平野の「自らの即興観」が語られることは無かったが、かつて彼が管楽器専門雑誌に書いたエッセイからその一端を知ることが出来よう。

 一般に、世間のクラシック演奏家に対する信用が何に裏打ちされているかと言えば、その技術力(中でも、美しい音色を作り出す技術)に尽きるだろう。もちろん、クラシック音楽家が常に他ジャンルの演奏家より優れた技術を持つ、などというのは幻想に過ぎない。が、坂田明をして「世界で一番サックスを吹くのがうまい」と言わしめた平野の技術が、そうしたクラシック演奏家に対する、いささか過大ともいえる信頼に応えるに十分なものであることは確かだ。特にその音色は素晴らしく、第7セットにてソプラノサックスとピアノとで演奏されたチャーリー・ヘイデンの<サイレンス>では、ジャズ・ミュージシャンの演奏ではそうそう聴けない美しいピアニシモが披露された。加えて平野には、極めて多様化した現代音楽の現場で様々なタイプの作品を演奏し、それらをプロフェッショナルに相応しい音と技術で演奏する訓練を積んできた経験がある。故に、その音楽性とテクニックの引き出しは数多く、即興科での訓練の成果も相俟って、共演者の即興に対するレスポンスも多様化されている。しかしながら、こうしたスタイルが、単なる技術、あるいは語法の開陳へと墜ちてしまう危険と隣り合わせであることは、常に意識されなくてはならない。

 黒田はこう書く、「フリー・ジャズをやっている人も含め、ジャズをやっている人には、心がかたい人が多いと感じる」と。際立った個性と技術を持ちながら、即興の現場で「自分の音楽」を披瀝することしか考えていない奏者は案外多いものだ。だが、このことは、むしろクラシック畑の演奏家にこそ当てはまる話のように思われる。クロスオーバーと称して発売される、クラシック畑の演奏家によるポピュラー音楽集が、ジャンルの越境などではなく、むしろ、ジャンルの壁の存在を−異なる音楽ジャンルのスタイルの違いを−強く感じさせてしまう例を、私達は嫌というほど目の当たりにしてきたはずだ。スタイルの違いに無頓着なまま自分流を押し通しても、ジャンルの壁は決して越えられず、その高さを強調してしまうのみである。

 平野が、賢明にも即興に名を借りた己の技術、あるいは己の音楽の開陳へと堕ちなかったのは、彼が自らと共演者、音楽、聴衆、それぞれとの関係を客観視し、自らと共演者の差異を常に意識した上で歩み寄ってゆく「節度」を身に付けていたからに他ならない。そうした「節度」ゆえに、平野はクラシック仕込みの超絶技巧をもったままジャンルの壁を飛び越えることが出来た。そしてもう一つ。共演者の側に、黒田のような他者との出会いによって自らのスタイルが変わることを恐れない、「やわらかな心」の持ち主が存在したこと。このような二人が相対したからこそ、真のクロスオーバーと呼ぶに相応しい演奏が生まれたのだと、今一度強調しておきたい。

(2003年7月24日 大泉学園・in F

(c) 2003 Jun-ich ISHIZUKA
Top Page