ソニック・パーセプション2003 アルヴィン・ルシエ パフォーマンス&トーク

鈴木 治行

 11年ぶりの来日を果たしたアルヴィン・ルシエのパフォーマンス&トークを聴いた。前回は池袋西武川崎市民ミュージアムに彼の音楽を聴きに出かけた記憶が残っているが、今回も前と同じ川崎市民ミュージアム。市民ミュージアムの方に11年の断絶は感じないが、一方西武は今やそこでルシエのパフォーマンスを見ることなどは想像もつかない環境に変化している。そんなところにも11年の歳月を感じた。

 ルシエのトークもなかなか聞けない話で興味深かったが、今は先へ急ぐ。まず順不同で2つの作品を同時に取り上げてみよう。《Amplifier and Reflector One》(1991)は、簡単にいえば反響板の上に乗せて増幅させた時計の音をコウモリ傘で拾うというもので、ルシエ自身が傘の向きを変えると反射音も微妙に変化する。傘はパラボラアンテナのように時計の音を集める役目を担う。《Opera with Objects》(1997)は2本の鉛筆をカチ合わせる音を聞かせる、ただそれだけといえばそれだけの作品。しかし、PAを一切かませず叩き方に変化をつけるだけで、広大な展示室の中での反響音が繊細に変化する様は驚異的だった。パフォーマーが2人いて1人から1人へと交互にバトンタッチしてゆく演奏形態には、延々と鉛筆を叩き続けるという「単調」な持続に明瞭な分節を入れるということと、叩く2人の位置が交互に変化することでこの空間の中での聞こえ方がどう変わるかを聞き手に体験させるという、2つの意図があったのではないか。この2つの作品に共通しているのは、ごくありふれた身の回りのオブジェのみを用いて驚くべき成果を上げている点だろう。驚くべきとはいっても、その変化は微妙で、十分集中して耳をそばだたせていないと気づかない類のものだ。しかし、顕微鏡の中を息を潜めて覗き込み、ミクロな世界の変化に気づいた時の世界の変容体験は貴重である。世界を変えるのには最先端のテクノロジーは必要ないのだ。

 そしてこの2つの作品が興味深いのは、単に元手がありふれた日用品だということだけではない。どこで演奏しても同じような成果が得られるわけではなく、この空間の反響の特性が如実に音に反映しているということが、まさに「ここ」性をくすぐるのだ。想像では、ルシエは事前にこの部屋の中を鉛筆を叩いて歩き回り、最も反響の度合いが興味深いポイントをチェックしていたのではないだろうか。電気的に増幅するタイプの作品(例えば前者)では、まだそうしたサイト・スペシフィックな特性は抑えられるだろうが、全くの生音による演奏では、その空間の特性は音にダイレクトに影響を与える。だが、ルシエが常にそうしたサイト・スペシフィックな音楽家なのかといえば、むしろそうでもないだろう。例えばあの《Music on a Long Thin Wire》にせよ、場所性と深く絡んでいるかのように見えながら、微妙に振動する針金の音は電気的に増幅されることで場所の固有性から抽象性の側へと大きく歩み寄ってはいなかったか。《Music for solo performer》で瞑想するルシエ自身の脳波が打楽器を「演奏」する時、周囲の環境がルシエと打楽器の間に介入する余地はあるまい。電気的な回路が作品の中で大きな役割を担うにつれて、場所性は逆に後退するのだ。

 最後に演奏された、この日のうち最も古い作品《Bird and Person Dying》(1975)では、左右のスピーカーとマイクを持ってゆっくり歩むルシエの間の位置関係が、フィードバック音(電子の鳥の声)を次第に変化させてゆく。この作品の場合は、この部屋の空間性というよりはスピーカーと彼の位置関係がすべてを決めている。少しずつ移動することで音が変化してゆくという時間性は「実験音楽」的だが、その変化が外部からもたらされるのではなく彼自身の意図的な歩みに左右されるというところに、「実験音楽」的ではない身体的な「演奏」の可能性が孕まれていて興味深い。

 ルシエの音楽における「演奏」の介入の度合には、作品によって様々な段階があるといっていいだろう。最新作である《FAN》(2003)は、4面の箏のために書かれている。4人の奏者は最初同じピッチから出発し、めいめいに同じ絃を延々とはじき続ける。何秒の内に音を1つ弾け、というような指定だけがあって、アンサンブルの一致を気にかける箇所はないまま曲は進行してゆく。それぞれの音が交錯し、干渉し合う様に耳を傾けているだけでも面白いが、非常にゆっくりと時間をかけてピッチが微妙に変化しているらしいことに、やがて何となく気づく。実は4人とも時間をかけて微妙にずり上がっているのだが、その微妙な変化は、すぐに交錯する他の奏者の似たようなピッチに掻き消されるのでなかなか明瞭にはわかり難い。いかにも、非常に近いがわずかにずれた波長の音同士をぶつけて干渉させるというアプローチを多くやってきたルシエらしい音楽だが、この発想はまさに箏向きのものであるという点でも、楽器の特性をフルに活用した作品として評価できる。微分音はヴァイオリン族でも出せるとはいっても、長時間微妙なピッチをキープして引き続けることはかなり困難であるのに、箏の場合は柱をずらしさえすればあとはそのピッチのキープは容易であるという点が見事に活かされているのである。

(2003年7月19日 川崎市民ミュージアム逍遥空間)

(c) 2003 Haruyuki SUZUKI
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