大宅裕&大宅さおり ピアノデュオコンサート

石塚 潤一

 内外で現代音楽演奏を中心に活躍するピアニスト:大宅裕が、実妹の大宅さおりとともに、20世紀後半の2台ピアノ作品を中心に据えたデュオコンサートを行った。

 プログラム前半では、ドビュッシーの《夜想曲》のラヴェルによる編曲(1892/1909)と、リゲティの《記念碑・自画像・運動》(1976)とが演奏された。冒頭のドビュッシーでは、2台ピアノ版ならではの親密で襞の多い表現を期待したが、開演直後の緊張ゆえか演奏は少々精細を欠き、幾らかちぐはぐな印象を残すこととなった。ゆえに、当レビューでは、2人の音楽性の真価が発揮され始めたリゲティ以降のプログラムについて詳述していくことにする。

 リゲティの《記念碑・自画像・運動》(1976)は、この作曲家の70年代の創作を代表するだけではなく、80年代の作風を予見している点からも興味深い作品である。リゲティといえば、まず、何よりも、『2001年宇宙の旅』の音楽として使用された、《レクイエム》《永遠の光》に代表される、ミクロポリフォニー音楽の書き手として知られるが、70年代に入ると、そうした作風に別れを告げ、独自の引用手法と、ミニマリズム、新ロマン主義へと接近し始める。これらの影響は独自に噛み砕かれ、比較的単純な音型の組み合わせを、次第に複雑なものへと変化させていく「展開形式あるいは動きの形式」と呼ばれる手法へと昇華された。この手法による初めての作品が、中間楽章にライヒとライリーの名前を冠した《記念碑・自画像・運動》である。

 第一楽章:<記念碑>では、2台のピアノがそれぞれ4分の4拍子、8分の6拍子で書かれ、その中に6つの異なるリズムパターンが錯綜している。一つ一つのリズムパターンには、各々異なったダイナミクスが割り当てられており、異なるダイナミクスの層の透視図的な配置により、聴き手に遠近法的な効果を感知させることが意図されている。しかしながら、この夜の大宅デュオの演奏では、リズムの角付けが少々甘く、ダイナミクスのメリハリが決定的欠けていた。ゆえに、作品が持つ豊かな内実が単層の中に塗りつぶされてしまった感がある。

 第二楽章:<ライヒ・ライリーを共にした自画像(その側にはショパンもいる)>では、左手で幾つかの鍵盤を音を出すことなく押さえ、その音を含めた鍵盤を右手で繰り返し弾くことによって、歯が抜けたかのような特徴的なリズムパターンを生成・増殖させていく。第一楽章では少々残念な結果に終わったが、この楽章からは2人の息も合い始めたようで、次第に瑞々しい表現も聴こえるようになってきた。第三楽章:<柔軟で流れるような運きで>では、アンサンブルの親密度は更に上がり、リゲティの80年代の傑作群にも通じるポリフォニックな線の織り込みが、美しい音色で一つ一つの声部を丁寧に弾きこむことによって表現され、控えめながらも味わい深いクライマックスが演出されていた。

 後半には、今回の演奏会を期に委嘱された原田敬子の新作:《Triple Cadence for two pianos》と、フェラーリの《追憶を辿って語られた(ある)幻想のような》が演奏されたが、ここでの演奏は、前半のリゲティ終楽章でのそれを凌駕する素晴らしいものとなった。

 原田敬子の《Triple Cadence for two pianos》は、1.rhythm(リズム)、2.intonation(イントネーション)、3.rhyme(韻)の3つの部分からなり、作曲者の説明するところでは、演奏家の内的な状態(拍の数え方、共演者のアンサンブルの関係など、実際の演奏に必要な技術を、身体に命令する状態)に様々なヴァリエーションを施した作品とのこと。しかしながら、このような意図を持つ作品ならば、作曲者が楽譜を通じて演奏者へと与えた仕掛けが、聴き手にもっと共有される局面があっても良いのではなかろうか。大宅兄妹による美しい演奏を十分に楽しめたことは確かなのだが、選りすぐりの素材を単に並べたように聴こえたのも事実。

 当夜最高の演奏となったのが、プログラム最後に演奏されたフェラーリの《追憶を辿って語られた(ある)幻想のような》(1989-91)であったことは間違いない。自身が逸話的音楽と呼ぶ独自のミュジーク・コンクレート作品で名を馳せるフェラーリの作品に相応しく、ミュジーク・コンクレート制作の経験の反映が随所にみられる作品である。2台のピアノが同じフレーズを微妙にズラして演奏することで、テープ音楽における遅延的効果が導入され、テープ・ループを思わすような反復も多い。完全に調性的な音楽であるが、前述の様々な音響効果、多彩な変容を施されたバッハからの引用などによって、軽やかに異化されており、伝統的な調性音楽が持ち得ない独特な味わいがある。フェラーリが伝統楽器のための作品を書く際には、作品は調性的なものとなることが多いのだが、これは、ミュジーク・コンクレートの制作において、音を単なる素材として扱うのではなく、音に付随する場・イメージをも作品へと持ち込もうとしたフェラーリが、伝統楽器の作曲においてもその流儀を貫こうとした結果、楽器の音に付随する場・イメージから、調性的なフレーズを切り離し得なかったということなのか? ともあれ、この作品の演奏に至って、二人の間でのニュアンスのやりとりは、正に自在なものとなった。アーティキュレーションは作品に細部に至るまで磨き上げられ、ドビュッシーではちぐはぐな箇所もみられた音量のバランスも見事に整った。筆者は、プログラムに記載された大宅裕自身によるライナーで、この作品へのミュジーク・コンクレートからの影響に関する記述がバッサリと落とされていたことを気にしていたのだが、演奏においてはテープ・ループ的な繰り返しなども丁寧に行い、この作品のうちに20世紀後半を代表するミュジーク・コンクレート作曲家の署名があることを明確に示していた。

 それぞれ1曲ずつの世界初演、日本初演を含んだプログラムであったが、初演の場でかくも丁寧な演奏がなされたことに意義を感じた。特に、フェラーリ作品の演奏は作品の普及という観点から見ても大きな役割を果たしたと言えるだろう。広く演奏されるべき2台ピアノのための傑作は、まだまだ音楽ファンの目につかないところに数多く埋もれている。この兄妹共演が継続され、さらに多くのレパートリーへと挑戦することが期待されよう。

(2003年7月18日 上野・東京文化会館小ホール)

(c) 2003 Jun-ichi ISHIZUKA
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