TEMPUS NOVUM 第14回演奏会

野々村 禎彦

 1990年に結成された作曲家集団TEMPUS NOVUMは、年1回のペースで新作演奏会を続け、今年で14回目を迎えた。前回は、テープ音楽を集めたCDを「録音媒体による音楽」をテーマにした「第13回演奏会」として自主制作したため(発売は2003年)、ホールでの演奏会は2年ぶりになる。ここ数年は編成やコンセプトを制限する「テーマ」を毎回設けていたが、今回は初心に帰って、各人が思い思いの作品を寄せた(編成の大きさには、金銭面から自ずと現実的な制約があるが)。出品作の粒が揃っていたという意味では、ここ数年の演奏会の中でも出色の出来だったと思う。それだけに、日本の現代作品を集めた吉村七重リサイタルと谷篤リサイタルが重なったせいか、 普段よりも聴衆が少なかったのは残念。以下、各作品を3部構成の演奏順に眺めていく。

 開演に先立って、ゲスト作曲家の西風満紀子がトークを行った(聴き手:鈴木治行)。音楽歴に関しては、まず渡米してミルズ・カレッジアルヴィン・カランに師事した後、カランの薦めでベルリンに渡ってW.ツィンマーマンに師事した、という経歴から想像される以上の話はなく、現在作曲中のシアターピースや、Edition Wandelweiserから今後リリースされる予定のCDが主な話題になった。そこでは、「音楽を自由に息づかせる」ことが強調され、この日も部分的に上演された、自作自演を前提にした1時間を超えるピアノソロ作品群の意図もこの文脈で説明された。最後に、彼女が作品を出版し、CDをリリースしているEdition Wandelweiser周辺の作曲家たちに話が及ぶと、気の合う仲間たちだが音楽性は少し違う、という言い方で距離を強調していたのが印象的だった。先日取り上げたクンス・シム同様、彼女も「ヴァンデルヴァイザー楽派の一員」というレッテルを貼られることは望んでいないのだろう。

 第1部は、あまり一般的ではない楽器による技巧的なソロ作品を2曲。1曲目の山本裕之《半島》は打楽器ソロ(神田佳子)作品だが、明快なリズムと多彩な音色で聴かせる一般的な書法とは対照的な、「曖昧さ」にスポットを当てた彼らしい曲だった。2連ドラム、カウベル、チャイナシンバル大小1つずつ、サンダーシートという編成からして、大きく澄んだ音の出ない、平均律音程を持たない楽器で統一されている。特にホワイトノイズ的なサンダーシートとその他の楽器を対比的に扱い、ヨレヨレした線とホワイトノイズの合いの手の曖昧な2声ポリフォニーを聴かせるのが基本コンセプト。曲が進むにつれてアタックが強まると、個々の打音は明確になる反面音程感は希薄になり、2声構造はますます曖昧になっていく。ただし、非調律打楽器の音程は同種楽器間ではじめて明瞭になるので、1楽器1音ずつだと、コンセプトが勝った習作という印象は拭えない。神田は身体性に流されず、作品のコンセプトを的確に捉えていた。

 2曲目の田村文生《交点〜複合歌》はゼフュロスソロ(曽我部清典)作品。ゼフュロスは、トランペットをベースにキーとスライドを両方持たせた、曽我部発案の創作楽器。音量と伸びやかな音色の代償として音程操作の可能性が大きく拡張されており、新作を書く際にはこの楽器の特性をいかに引き出すかが問題になる。田村はこの楽器をトランペットとトロンボーンの複合楽器と捉え、各々の楽器の性能を拡張して結合した。トランペットの拡張としては、キー操作と倍音列の飛び移りだけでは演奏困難なフレーズをスライド操作を交えて吹いたり、フレーズの最後をしゃくり上げたり。トロンボーンの拡張としては、スライド操作によるゆったりしたフレーズの最後に急速な音形を付加するなど。音量の物足りなさやくすんだ音色は、さまざまな奏法やミュートを用い、楽想も音色も頻繁に変化する展開の中で、あまり気にならなくなる。ミュートを外して吹く部分と付けて吹く部分が交互に現れ、用意したミュートを一通り使ったところで冒頭の雰囲気に戻り、全曲を回想したコーダを経て終わる構成は、思いのほか伝統的だ。この楽器の一番の特長は、キー操作とスライド操作を同時に行えることだが、このような奏法は殆んど用いられなかった。曽我部の演奏は、この楽器の「特殊性」をあまり強調しない点が、むしろパイオニアらしい。似た編成の曲をまとめて間に休憩を入れるプログラミングは、一般には編成の違いを曲の印象の違いに直結させないフェアな方法だが、今回のように地味なソロ作品が2曲続くと、それだけで後に演奏された方は割を食ってしまう。

 第2部は、ユニークな発想を持ったデュオ+αの2作品。1曲目の鈴木治行《沈殿−漂着》は、Fl./A.Fl.(重見加奈)、G.(佐藤剛明)、電子音響(鈴木)、朗読(矢代朝子)による、「語り物」シリーズ()の4作目。冒頭は器楽デュオで、同一編成の武満徹《海へ》に似た楽想で始まる。すると語りは早速、「聞き覚えのある音楽が....」と作品解説を始める。語りがリアルタイムで作品解説を行って音楽を異化するという発想は、シリーズ前作でも既に一瞬現れたが、本作では全曲にわたって展開される。音楽がまとまりかけると、ホワイトノイズや変調された正弦波発振音といった、今日ではプリミティヴな印象を与える電子音が威圧的に介入してくる。解説は電子音にもしばしば言及し、アンサンブルと電子音を語りが仲介するのが、本作の基本構造である。ただし、前作では音楽の発想まで踏み込んでいた「解説」は、本作では音楽の表面的な成り行きを常套的な言葉で語る以上のものではない。フルートの込み入った線が「上行」「下行」の一言で片付けられ、フルートの高音域と正弦波発振音が干渉して揺れる微妙な効果も「フルートと電子音のあわい」で済まされてしまうあたりは、音楽を語る言語表現の貧しさへの強烈な皮肉になっている。作品解説のはずが、感情や情景を自動書記のように垂れ流す文章に入れ替わる箇所もしばしば現れるが、鈴木にとっては、因習的な批評言語はそれと大差ないということなのだろう。

 やがて電子音は浜に寄せる波の音に変わり、作品が後半に入ったことを告げる。アンサンブルはますます調性的になり、語りも海の情景描写が中心になってくる。だが、波の音の再生はしだいに断片化され、この安定した関係性にも亀裂が入る。さらに波の音の変調が進むと、前半のホワイトノイズの音源はこれだったのかと気付く。音楽の表層を饒舌に語っていた「解説」が、具体音の加工の前では沈黙するあたりには、フェラーリの音楽に傾倒し、現代音楽界のフェラーリへの無理解を嘆く鈴木のスタンスが見え隠れする。終結部では波の音がフェードアウトし、冒頭の雰囲気に戻って終わりらしく終わる。図式的な構造は持たないが終わりだけは終わりらしい、というのは近藤譲作品の特徴だが、これは無意識の影響なのか、それとも意図的なオマージュなのか。このシリーズの展開を振り返ると、強烈なコンセプトの探求は2作目で行くところまで行った。そこで前作から込み入った関係性の探求に転換し、その方向性は本作で実を結んだ。次作以降では、また違った発想が展開されることを楽しみに待ちたい。

 2曲目の横島浩《月下》は、大正琴(棚谷祐一)と打楽器(神田)のデュオ。大正琴は大きく増幅され、音高指定に合わせて奏者が選ぶ金属打楽器を音量でも上回る。ふたりは息を吸いながら発声も行うが、棚谷の声は増幅されるのに対して神田は生声で、こちらの音量も楽器とパラレルになっている。鈴木作品と同じステージになって割を食ったかと思いきや、むしろ鈴木作品に欠けていたものを示してくれた。間欠的に叩かれる打楽器、思いついたようにかき鳴らされ、常に呻き声を伴う大正琴、ごく稀に発せられる打楽器奏者の声。これらの要素が、表立っては知覚されないシステムによって配置される。このようなシステムはむしろ、即興によっては成し得ない「ランダムな音事象」を発生させるための装置とみなすべきだろう。舞台中央に明確に定位した打楽器、左右のスピーカーから流れる大正琴、舞台上方のスピーカーから降ってくる大正琴奏者の声、定位の定まらない打楽器奏者の声と、音響の方向性でも聴き手を幻惑し、時折舞台裏から太鼓(横島)が介入してさらに事態を複雑にする。むしろ「ランダム」な沈黙が音楽の主役になっている本作は、電子音の定位も随時変化させて流麗にディスコースを紡ぐ鈴木作品にはない、音楽を聴きながら考え込む間を聴き手に与えた。

 ここでひとつ指摘しておきたいのは、この作品における沈黙の時間スケールは、マルファッティらヴァンデルヴァイザー楽派の一部の作曲家たちが探求してきた、個々の楽音の間の関係性が完全に消失し、沈黙は音で満ちていることを実感させる、あの時間スケールとは異なっていることである。通常の音楽の沈黙の単位が心拍周期だとしたら、この作品の沈黙の単位は呼吸の周期だ。この時間スケールでは「メロディ」や「フレーズ」は消失するが、孤立した音の間の関係性はまだ残っている。この沈黙の時間スケールを感覚的にコントロールするのは難しく、作例も少ない。近年、即興を緩やかに制限した「作曲」で沈黙と向き合い、大きな成果を挙げている杉本拓の音楽における沈黙が、ヴェーベルンや初期ケージ程度の疎らさからマルファッティに匹敵する疎らさへと、不連続に変化したのもこのあたりの事情と符合している。この沈黙の時間スケールは、本作のように厳密なシステムを用いなければ制御できない。聴取の次元では、「現代音楽」を特徴付けていた音響現象の大半は即興で実現できるようになったが、本作の沈黙の時間スケールは、数少ない例外のひとつと言えるだろう。ともあれ、音と沈黙の間には、十分に探求されていない領域がまだ残っている。沈黙の多い音楽を十把ひとからげに「ケージの亜流」と呼んで片付けるような、低レベルな言説は今日では通用しない。

 第3部は、一般的な楽器によるソロ作品を2曲。1曲目の西風満紀子《pianopera II》(2002-03)は、スタティックなPf.ソロ(西風)作品。I/II各30分からなる大曲の第2部が演奏された。ダンパーペダルを踏みっぱなしにして柔らかい線を切れ目なく続ける点はフェルドマン的、時折ペダルを切って乾いた響きも混ぜる点はケージ的。後期フェルドマンのピアノ曲は、一見単純な相貌とは裏腹に、複雑な音価を用いて記譜された微妙なゆらぎが聴き所だが、本作はリズムは単純な代わりに、微妙なペダル操作でニュアンスを付けていく。また、後期フェルドマン作品では、不規則な反復を多用して曖昧な記憶を堆積させていくが、本作はそれよりも調性的な反面、反復は極力避けられ、耳に引っかかる要素が全くない。最近リリースされた1999年のPf.ソロ作品《aqua・piano・aerial》(Edition Wandelweiser, EWR 0301)もこの特徴を共有しており、これが現在の彼女の個性なのだろう。ダイナミクスの幅が小さく丸みを帯びた音色も、曲想に合っている。音に満ちていながら、全体が巨大な沈黙のようでもある時間体験は、音と沈黙の関係を別な角度から照らし出した。

 2曲目の田中吉史《bogenspiel》は、ファーニホウシャリーノを思わせる音形が頻出する、ヴィルトゥオジックなVn.ソロ(辺見康孝)作品。だが、これらの音形はむしろ脇役で、主役は弦をたまたま引っ掻いたかのような(実際には厳密に指定されている)持続音の方。個々の音楽要素は常套的でも、音楽の中での役割を主客転倒させるだけで面白くなるものだ。作曲者の意図通り、身体運動にも気を配った辺見の引き締まった好演も手伝って、充実したコンサートをこの上ない形で締めくくった。

 東京圏で活動する若手作曲家が、自作を音にするために結成したのがこのグループだった。日本の若手ないし中堅作曲家集団の多くは、「脱ジャンル」を標榜しつつも目線は内向きで、業界内部での「好評」に安住しがちだが、このグループは業界外にも訴えるものを持っており、結果として表に出る評はむしろ批判的なものが多かった。もちろん、これは彼らの勲章である。だが、《カンティクム・トレムルムII》(2001)で武満徹作曲賞芥川作曲賞をダブル受賞した山本をはじめ、いまや中堅になった各メンバーは既に内外で評価され、作品を発表する場は十分に確保している。生活の基盤を東京圏外に移したメンバーも増えており、このグループも転換期に差しかかってきた。とはいえ、全盛期のダルムシュタットのように、切磋琢磨する中で初めて見えてくるものもある。この日の曲目の中から1曲だけ抜き出して「普通」の現代音楽コンサートで演奏したとしても、「前衛的」「実験的」「独創的」といった型通りの評価以上のものが果たして得られるかどうか。これに匹敵する場を各メンバーが作り上げるまで、このグループは貴重な場であり続けるはずだ。「テーマ」のみならず、「毎年」という制約を外すことも可能だろう。その結果として、大編成作品やインスタレーション作品を含める余裕が得られるならば、それも悪くない選択だ。このグループが、自然消滅を恐れて毎年惰性で演奏会を続けるような集団とは一線を画していることは、今回の曲目の質の高さが何よりも物語っていた。

(2003年12月2日 王子・北とぴあつつじホール)

() 鈴木のこのシリーズには、他に以下の作品がある:
  • 浸透−浮遊 (1998): Fl.,G.,Pf.,Cb.のアンサンブルと環境音のテープを、朗読が仲介する。
  • 伴走−齟齬 (1999): Pf.とトモミンが同じ音形を奏する異様な状況を、朗読が先導する。
  • 陥没−分岐 (2000): S.&Pf.とVo.&Key.が織りなす多様な関係性を、朗読が増幅する。
  • (c) 2004 Yoshihiko NONOMURA

    Brief Report - 03/11/19 井上郷子ピアノリサイタル - クンス・シムのピアノ曲
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