musica nova vol.2 - 灰野敬二、伊東篤宏、ヲノサトル

野々村 禎彦

 musica novaは、新進サウンドアート集団Great YEar soundingsによるライヴ企画。2003年10月5日のvol.1では、(1)チベットゴングのドローンと正弦波発振音を重ねた彼らのパフォーマンス、(2)自作楽器や声をラップトップ上のDSPソフトで加工しながら、発音箇所を撮影して映写する(最後、口の中にカメラを突っ込んだヴォイスパフォーマンスは場内大受け:だが本当に素晴らしいのは、最後のカタルシスの要素を断片的に提示して積み重ねていった、そこに向かうプロセスの周到な設計だ)足立智美のソロパフォーマンス、(3)クリストフ・シャルルのラップトップソロ、(4)スピーカー端子を電源に直接差し込み、ユニットが焼け切れるまでの交流波形を音に変換する、The Sine Wave Quartetの儚いパフォーマンスが行われた。

 今回も、オープニングはGreat YEar soundingsの演奏。今回は楽器としてVn., Cl., Hrn.を選び、サポートメンバーのS.Sax.も加わり、前回同様深いリヴァーブをかけて増幅する。Vn.はDSPソフトによる長時間のディレイもかけていた。その上に音響担当(彼もメンバーではない)が正弦波発振音を加えるが、複数の周波数を重ね、さらに出力の飽和による歪みも乗ってくると、聴感としてはむしろ帯域ノイズに近い。基本的には1種類のドローンがひたすら続くが、音の表面に浮かぶ楽器が刻々変化するので、30分以上にわたって飽きさせない。この日の演奏で最も重要な役割を果たした音響操作は音響担当に一任し、彼らは淡々と持続音を弾き続けた。これはもはや彼らの「演奏」とは言えないが、メンバー名はことさらに公にせずに(ホームページのある箇所には記されているが)サウンドインスタレーションとして音響を提示する、彼らのスタンスとは矛盾していない。緩やかに変化する照明(しもだめぐみ)も音楽のテンポ感に合っていた。

 次はヲノサトル。3台のラップトップを駆使した演奏という意味では、前回のクリストフ・シャルルに相当する人選ということになる。冒頭は、単純な発振音を1音ごとに会場の四隅の別々なスピーカーから出し、その後の展開への興味が膨らんだが、ステディ・ビートが始まってからは、クラブミュージックの典型的なフォーマットから大きく逸脱しない音楽が繰り広げられた。近作《SONATA for sine wave and white noise》(Sonore, SON-20)の素材に派手なビートを加えたフロア向けミックスというあたりか。このジャンルに明るくない筆者には、「典型」との微妙な差異に創意を聴き取るのは難しいが、ステディ・ビートさえキープされていればどのような音響でも上モノになり得る、というテクノの特性を利用した「実験的」な試みにはあたらない。少なくとも、携帯カイロを握り締めて寒さに震えながら、椅子に座って聴くための音楽ではない。フロア仕様の重低音もスピーカーの能力を超えており、色々な意味で消化不良に終わった。最初のステージとテンポ感の変わらない照明も、音楽との齟齬が目立った。BPMに合わせた点滅か、素材の大転換点に絞った切り替えのいずれかが常道だろう。

 3番手は伊東篤宏。創作楽器オプトロンを2台使ったインパクト満点のステージだった。ドライアイスから引いたホースを扇風機のモーターに取り付けたスモークマシンも使っていたが、これは伊東ではなく主催者が制作したものだという。オプトロンの発音原理は、蛍光灯の放電ノイズをエレキギターのピックアップで拾い、エフェクターを通して増幅することだが、この日お目見えした2台目は、ピックアップの種類が普段のライヴで使っている1台目とは違い、音色は高音域寄りで鋭い。使い込んでいないせいか蛍光灯も眩しく、あらゆる面で1台目よりも刺激的なオブジェである。2台目の音(蛍光灯は光らせない)にフランジャーをかけた、スペイシーなサウンドからスタート。そこに1台目が灰野並みの大音量で突っ込んでいく。元々ホワイトノイズ的なサウンドなので、アンプの飽和による歪みはさして問題にならない。やがて2台目も光らせて地の音で勝負するが、手動で不規則にゆらぐ1台目とは対照的に、こちらは自動で明滅させながらノイズを撒き散らし、伊東が操作するのは明滅の周期と音量のみ。2台になると単調な音色が際立ってしまう危険性を、奏法にコントラストを付けて回避し、次の音が待ち遠しい状況が最後まで続いた。蛍光灯が唯一の光源という状態が保たれたことで、沈黙にも十分な存在感があった。

 トリは灰野敬二。この日はエレクトリック・ハーディガーディによるソロと予告されていたが、まず2台の発振器でスタート。オルガン程度の音程感の濁った音をぽつぽつ鳴らす。最初は協和音程だが、繰り返しが進むにつれてピッチシフターで微分音的にずらしていく。前屈みの姿勢で、殆んど体を動かさずに黙々と発振器とエフェクターを操作する姿には、従来の彼のイメージを破るものがある。音楽的には序奏の域を超えていないが、エレクトリック・ハーディガーディは調子が出るまでに時間のかかる楽器なので、序奏を付けるのは悪くないアイディアだ。15分ほど過ぎたところで、ハーディガーディをまず少し鳴らし、楽器の状態を確かめてから一度発振器に戻り、唐突にピンジャックを引き抜いてハーディガーディに差し換える。最初に鳴らしたハーディガーディの音は幾分こもっていたような気もするが、予定の演出だったのかもしれない。この間、ドローンが続く流れは切れたままだが、そういうあたりは意に介さないのが灰野らしいとも言える。

 その後は、時に激しく痙攣しながらも、ギター演奏のようにそれを直截に音にすることはなく、身体運動のエネルギーだけを音に変換したような、静謐な中に強靭な意志を籠めた音楽が続く。1時間近い演奏の中で一度はマイクを手に取るが、すぐに思い直して歌は止め、楽器に専念する。やがて訪れる至福の瞬間。今回の演奏では、ハンドルを回して得られる持続音は続けながら、弦に指を軽く触れ、ハーモニクスで仄かな旋律を紡ぎ始めた時だった。音量は囁くようだが、音程は奏法から想像されるよりもはるかに正確である。最初は、Great YEar soundingsが使っていたVn.のライヴサンプリング音を流したのかと思ったほど、愁いを帯びた旋律は厳格にコントロールされていた。灰野の音楽は、確立された技術を用いて安定した質を保つような種類のものではないが、圧倒的な感銘を与える瞬間には必ず、場の状況に応じて音響を的確にコントロールする、卓越した「技術」が付随している。彼の音楽を精神論に還元するのはたやすいが、反復練習では身に着けられないこの種の「技術」をライヴで発揮するためには、それにふさわしい精神状態が必要になる、という風に受け取るのが生産的な態度だろう。

 都市化が進んで廃校になった都心の学校を文化施設やNPO施設に転用する動きは、ヨーロッパのアンダーグラウンド文化を支えるスクワッド運動の日本版と言えるもので、今後の展開が注目される(本サイトの足立氏のテキストでも、たびたび登場している)。元体育館という、音源の位置に制約のない広大な(ライヴハウス、クラブ、ギャラリー等と比べて)空間は、演奏の場として大きな可能性を秘めているが、元々音楽会場ではないが故の困難も大きい。今回は暖房がまず問題だったが、電源も不安定で進行はしばしば遅れた。灰野の演奏の前半、片側2本のスピーカーから音が出ていなかったのは、ヲノのような定位の変化が本質的な音楽ならば致命傷になりかねない。とはいえ、vol.1では気になった運営上の不手際は今回はかなり改善されており、ファン層が殆んど重ならない音楽家を組み合わせて十分な動員を実現した上に、お目当ての音楽家以外にも熱心に耳を傾けるような聴衆が集まったのは、アングラ的な会場が良い意味で篩として働いたということだろう。灰野が演奏終了後に「どうもありがとうございました」と深々と頭を下げる場面は、滅多に見られるものではない。この企画の今後に期待したい。

(2004年1月31日 六本木・旧三河台中学校(みなとNPOハウス)体育館)

(c) 2004 Yoshihiko NONOMURA
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