作曲家の個展2004・近藤譲 |
野々村 禎彦 |
サントリー音楽財団は1981年から毎年1回、日本の作曲家のオーケストラ作品の個展を続けている。本年の特集作曲家は近藤譲。彼は決して「オーケストラ作曲家」ではなく、この日初演された委嘱新作を含めて一度でも演奏された作品が5曲(いずれもヨーク大学音楽出版局から出版または出版予定)、初期の未初演・未出版作品が2曲、作品表では管弦楽曲に分類される室内オーケストラ作品が2曲、吹奏楽とマンドリンオーケストラのための作品が1曲ずつある。演奏会開始前のプレトーク(聞き手:沼野雄司)には興味深い話が多く、本稿でも若干言及するが、抄録をこちらにまとめておいた。演奏は4曲ともポール・ズコフスキー/都響、1曲目のピアノ独奏は小坂圭太。なお、プレトークでも語られていた「オーケストラはピアノソロに最も近く、全体でひとつの楽器だと思っています」という近藤のオーケストラ観に鑑みてあえて2階正面後方の席で聴いたことが、以下の記述に影響している可能性はあらかじめ指摘しておきたい。
1曲目は《時の形》(1980)。ピアノとオーケストラのために書かれ、最初に音になったオーケストラ作品である。初演は同タイトルのLP (ALM records, AL-27)の録音セッション、舞台初演は1995年、この日が日本での舞台初演である。作品の基本構造は、オーケストラの一部の楽器群の和音がクレシェンドし、その頂点で音がピアノの和音に受け渡されて減衰し、別な楽器群が立ち上がることの繰り返し。ただし例外が2回あり、オーケストラの持続和音の上でピアノが旋律断片を弾く。この2回が全曲の折り返し点とコーダの直前に置かれ、緩やかな形式感を生み出している。ズコフスキーの解釈は、各和音の音色と遠近感のコントラストを明瞭に描こうとするもので、オーケストラもその要求によく応えていたが、ピアノの打鍵が常に平板なため音楽の統一感はいまひとつ。リハーサル3日間で4曲という練習スケジュールでは、直前の楽器群の音響に合わせて打鍵を選ぶのは難しかったのかもしれないが、せめてピアノが完全に減衰してから次の音が始まるコーダ近くの数音だけでも、潤いのあるタッチで聴きたかった。この日の演奏は、無骨な「日本の現代音楽」という趣だったが、ピアノがオーケストラに溶け込んだモーツァルトの協奏曲のような佇まいが、編成的にもこの作品にはふさわしいはずだ。
オーケストラのセッティングのための休憩を挟んだ2曲目は《林にて》(1989)。この日唯一演奏されなかった《牧歌》と同じ年に作曲され、翌年の民音現代作曲音楽祭で初演されて尾高賞を受賞している。オーケストラを均等な編成の2群に分けて左右に配置し(各群の手前から奥への順序は通常の配置に準ずるが、Cb.が中央に来たりと左右は独自)、2群の間での音の受け渡しなど複雑な関係性を意図している。沼野はプレトークで「ゲネプロを聴いて明晰な表現に驚いた」と発言していたが、これはおそらく、尾高賞受賞演奏会における岩城宏之/N響の演奏と比較したのだろう。この日の演奏は、管の強奏と弦のくすんだ和音の対比は明確だが2群の対比は曖昧で、尾高忠明/東フィルによる初演の明晰さには及ばない。この日の演奏は結局、2群を結びつける打楽器パートに専らスポットが当たった。近藤のカウベルへの偏愛とその書法の巧みさをあらためて確認し、ヴィブラフォン、グロッケンシュピール、ティンパニを稀に用いるタイミングに興味は集中する。プレトークでは選曲の裏話も披露されたが、《牧歌》《林にて》は1楽器1音ずつの受け渡しで旋律を作るので限られた練習時間での演奏は難しく、ズコフスキーはどちらも気が乗らなかったが、三拍子と四拍子の混在が前提になっている《牧歌》よりはまだ易しいので渋々《林にて》を選んだ、という経緯がそのまま音になってしまった。
再び休憩を挟んだ3曲目は《桑》(1998)。同年にロンドンで行われた武満徹追悼フェスティヴァルのために書かれ、その思い出に捧げられている。このような創作の背景は作品にも反映されており、オルガンのように濁った和音の連なりが後期武満を思わせる湿った旋律を奏でる。さらに要所要所でヴィブラフォンとピアノが打ち込まれ、音楽を一層親しみやすいものにしている。不協和音の霧の色合いの変化に耳を澄ましていると、その霧がさっと晴れ、協和音の中から反復リズムが聴こえてくる後半の急転には驚かされるが、1999年の「作曲フォーラム」における近藤レクチャーで聴いた初演の録音からはこのようなドラマは聴こえてこなかったことを思い起こすと、ズコフスキーの解釈の賜物なのだろう。
最後は新作《夏に》(2004)。前作では旋律を形成する1音ごとに音量が増減し、孤立した音がぽつぽつと置かれて仮初めの線的構造が形成される「線の音楽」の相貌が辛うじて保たれていたが、本作では抑揚のない旋律の太い帯が淡々と流れていく。後期クセナキスの旋法的なアクを取ったような音楽という印象。だが唐突に、《地峡》(1985)を思わせる諧謔的なアレグロの音楽が始まる。程なく冒頭のテンポに戻り、両者の往復運動は数回繰り返されるが、その度にアレグロ部分は長く、ゆったりしたテンポの部分は短くなっていくあたりには周到な計算が窺える。さらに両者の中間のテンポや、静止しているかのような持続音の部分も現れるに至って、作品の意図ははっきりした。「この作曲での私の主な関心は、『和音』(『一個の音』)の単純な一本の列が、異なったリズムとテンポの文脈によってどのように変化して聴こえるか、という点にあった」というプログラムノートの自作解説に忠実な音楽がそこにあった。僅かな逸脱は、Vn.とCl.が高音域でソロ的に漂う部分と、ソロ的なティンパニの扱いに見られたが、前2者は総休止を伴う終曲を装った場面、後者は終結部に現れ、「伝統的なディスコースとは無縁だが終わりだけは終わりらしい」彼の音楽の特質によるものである。演奏と作品を総合すると、この作品がこの日では最も聴き応えがあったが、この発想自体は先行するピアノソロ作品《夏の小舞曲》(1998)で既に、より充実した形で表現されていたことは指摘しておきたい。
近藤の音楽をかれこれ20年近く聴いてきた者にとっては、オーケストラ作品による個展という機会は何よりレアで(第1回の松平頼則個展以来と言ってもいいかもしれない)楽しめたが、このシリーズ本来の目的である日本の作曲家の紹介という観点に立つと、日本初演作品を中心にアンサンブル作品を2夜にわたって特集した方が、彼の音楽の最良の部分を広く伝えながら、コアな聴き手をも満足させる企画になったのではないか。過去のシリーズでも、柴田南雄の回は合唱作品のみ、高橋悠治の回は和洋楽器のアンサンブルとコンピュータ音響のための新作1曲のみと、オーケストラ作品による個展という形態には必ずしもこだわっていなかった。室内楽ホールを併設する自前のホールでの企画なのだから、会場的にも問題はないはずだ。音楽表現手段の拡張に伴って、オーケストラを特権的なメディアとはみなさない作曲家は増えている。このシリーズの今後のためにも、柔軟な編成への移行は検討する価値があると思う。
(2004年10月7日 溜池山王・サントリーホール)