next mushroom promotion vol.7:シュパーリンガーを迎えて

野々村 禎彦

 1944年生まれのマティアス・シュパーリンガーは、ラッへンマンヘスポスらドイツの戦後前衛第2世代に続く世代を代表する作曲家のひとりだが、日本での本格的な紹介はこの企画が最初になる。日本の現代音楽受容は、1960年代までは欧米のフォローアップが中心だったが、武満という日本初の「国際的」作曲家の出現によって、武満の個人的交友関係に基づく紹介が20年近く影響力を持った。もちろん、それ以外の回路もあったが、ヨーロッパ戦後前衛という「主流」が失われた時代には、クセナキスノーノベリオフェルドマンら20世紀後半を代表する同世代(やや年長)の作曲家たちを核とする紹介が逆説的に説得力を持った。その後は細川俊夫が中心になったヨーロッパ・フォローアップの時代が再び訪れ、ドイツ音響作曲、スペクトル楽派、新しい複雑性といったポスト戦後前衛の「主流」的な潮流がようやく紹介された。この流れの中でデビューし、ヨーロッパに留学した作曲家たちによってこの現代音楽観は再生産されているが、新たな「主流」から外れた音楽の紹介はさらに遅れた。そのような作曲家のひとりであるシュパーリンガーが、福井とも子川島素晴という、細川の磁場の中でデビューしたものの単なるフォローアップには向かわなかった作曲家によってようやく紹介されたのは、自然な成り行きと言えるだろう(ただし、フェラーリのように「完全に外れた」作曲家は、また別のルートで紹介されることになる)。

 最初は、「比率とプロセス性」と題する講演。当初は、比較的寡作な彼(1969年の第1作以来、2004年までに書いたのは室内楽を中心に40作余り)の最も大規模な作品、大オーケストラのための1時間近い大曲《passage/paysage》(1989/90)の作曲者自身による分析だと予告されていたが、通訳を交えると4時間近くかかりそうだということで予定は変更され、彼の作曲の基本姿勢をさまざまな作品の録音を交えつつ(CD-RをCDラジカセでかけつつ)語った。このような経緯のため講演原稿は全く準備されず、通訳の清水穣氏はぶっつけ本番で2時間以上に亙って彼の言葉を伝え続けた。筆者の理解した範囲での概要はこちらにまとめておくが、「新音楽=現代音楽はそれ以前のいかなる音楽も持っていなかった特質を持つ」という冒頭のテーゼから筆者にとっては疑問続きで、筆者はおそらく良い語り部ではないことはあらかじめお断りしておきたい。そもそもこのタイトルからして、機能和声に代わる聴取の参照点として構成音や時間分割を比率に基づいて決め、いかに音楽に成り行きを回復させるか、という意味なのだ。「現代音楽」という制度の伝統性を問わず、さらに秩序化を進めることが現在の彼の関心事だとしたら、それは後ろ向きと言わざるを得ない。講演はコンサートとは別の講義室で行われ、想定人数をはるかに超える聴講者が詰め掛けた。補助椅子の増設や立見場所の確保で講演開始が遅れ、質疑応答の時間は全くなかった。もっとも、コンサートの開演時間が迫って話を端折った格好だったので、定刻に始まってもやはり質疑応答はなかったのかもしれない。

 短い休憩を挟んで、ヴァイオリン(辺見康孝)とピアノ(大井浩明)のための《extension》(1979/80)。特殊奏法の多用と古今の諸作品の引用と視覚的要素や空間性の導入、と作品の特徴を列挙すると、ラッヘンマンシュネーベルカーゲルらドイツの先行世代の音楽が否応なく連想されてしまうが、彼らの音楽を意識しつつも(例えば、ヴァイオリンの弓を強く押し付けながら弾いてノイズを発する部分が"ex-pression"と名付けられているのは、同様の奏法をテーマにしたラッヘンマン《Pression》に由来する)、作品を貫く美意識は彼らとは微妙に異なっており、シュパーリンガー紹介企画の最初の曲目にふさわしい。ピアノは、既存の作品の引用とクラスターとアクション以外の時間はほぼ内部奏法に徹しており、弦や金属フレームをさまざまなオブジェで擦ったり叩いたりする他、指でダンプして弾いたり弦楽器と同様の倍音奏法を行ったりと、鍵盤にアクセスする内部奏法も多い。特に印象的だったのは、柚子くらいの大きさの金属球で弦を擦り、金属質のグリッサンドを得る奏法。ギターのスライド奏法をピアノ弦で行ったと思えばよいが、内部奏法の記憶のアーカイヴにない音響は、現代音楽を聴き慣れている者ほどインパクトが強い。この直前にピアニストが演奏を中断し、金属球を取りに楽屋に戻るアクションが入るだけになおさら。ピアノ奏法の詳細は大井のblogを参照されたい。

 ドイツの先行世代にはない彼に固有の美意識とは、アメリカ実験音楽の影響に他ならない。それは講演内容からも既に薄々感じられたが、作曲者立ち会いの下に入念なリハーサルを経て行われた演奏が雄弁に物語っていた。既存の作品の引用にもさまざまなアクションの指定にも、歴史や伝統を踏まえたアイロニーは全く感じられない。後半の辺見は客席の最後部やホールを出た廊下などで弾き、大井は「好きな行為をせよ」の箇所でピアノの椅子に立って客席を撮影した、といった個別のアクションはシュネーベルやカーゲルの作品の中に現れても不思議ではないが、それらがフラットに連結されていく感覚は先行世代とは異質だ。本作における引用はケージのミュジサーカス、アクションはフルクサスの嫡子であり、意味性を無化するためのノイズとみなすべきだろう。ケージ《0'00"》やライリー《In C》が引用されていること自体は本質ではない。 W.ツィンマーマンシュテープラーB.ラングヴァンデルヴァイザー楽派らの音楽は突如ドイツ語圏に現れたわけでも、N.フーバーの音楽がすべての源流になっているわけでもなく、むしろシュパーリンガーこそがドイツ語圏のふたつの世代を結ぶキーパーソンなのだと実感させてくれた。

 ふたりとも大半の時間は演奏し続けているわけだが、常にピアノの周辺で目も耳も奪うプレイを続ける大井に対し、後半は目立たない場所で弾くことになる辺見の印象がやや薄くなってしまうのはやむを得ない。残響が少ない上に車道の音が容赦なく入り込んでくる会場で、廊下で弾いても張り詰めた音が途切れなかっただけでも大変なことだ。アクションの要求もピアノに劣らず過酷で、ヴァイオリンは2挺用意し、調律が狂ったり楽器を損傷したりするおそれのある強烈なノイズ(注1)は、予備の楽器に持ち替えて弾いた。ただし、このようにヴァイオリンとピアノが楽器の可能性を拡張しあうと、ヴァイオリンが囚われている伝統の枠をピアノが破る、という役割分担になってしまう。程度の差こそあれ、後述する前田克治作品でも同じことが起こっており、演奏の問題というよりは楽器が背負っている伝統の違いなのだろう。それを克服するためには、のようにエレクトロニクスを用いるしかないのかもしれない。

 長い休憩(ただし、会場周辺に食堂は殆んどなく、夕食休憩としては少々短い)を挟んで、シュパーリンガーの室内楽作品5曲と翌日の公開レッスンで演奏される日本人作品2曲からなるプログラムが始まった。セットリストは以下の通り:

(休憩)

 まず、日本人の2曲から。前田作品は、ヴァンデルヴァイザー楽派を思わせる引き伸ばされた時間(彼の言葉によれば、「音楽を純粋な体験の場とする」実践)の最初期の試みにあたり、その特質は透明度の高い不協和音を不規則に繰り返すピアノパート(前田)に端的に表れている。他方、ヴァイオリンパート(辺見)はテンポこそピアノパートに合わせているが、いわゆる特殊奏法で固められ、両者は有機的に相互作用することも齟齬の大きさで存在感を示すこともなく、なんとなく流れてゆく。過渡期の習作と言ってしまえばそれまでだが、この作品を皮切りに内外で受賞歴を重ねることになる作風の出発点が見られたのは興味深い。森田作品も、2004年に改訂されているが基本的には旧作であり、近年取り組んでいる劇場性の導入の端緒にあたる作品だという。具体的には、チェロ(多井智紀)が無調的な音型を淡々と弾き続ける中、クラリネット(上田希)は吹くフレーズの構成音が基音なのか倍音なのかに応じて、斜め後ろまたは正面を向いて演奏する(譜面台もふたつ用意されている)。コンセプトは明快だが、中間部でこの対応関係を一度曖昧にしてしまうのは「多様な関係」ではなく「不徹底」だ。音響と本質的に結びついていない形而上的なコンセプトは、終始一貫させなければ意味がない。

 少々辛口の評になったが、これらの作品の企画全体での位置付けを考えると、正面から批判するのはおそらく野暮だろう。公開レッスンのための作品として、なぜ各作曲家の最近の自信作ではなく、一昔ないし二昔前の習作のような作品を選ぶのか。本来は若手作曲家のレッスンを考えていたが適当な作品が集まらず、現在30代半ばで着実な創作を重ねている作曲家にあえて突っ込み所満載の旧作の出品を依頼し、レッスンを盛り上げようとしたのかもしれない。さらに穿った見方をすると、前田の旧作の問題点は反復音形と前衛語法の残滓の相性の悪さ、森田の旧作の問題点は不徹底な劇場性だが、これらはシュパーリンガー作品の問題点に他ならない。ピンポイントで餌を撒き、教育的講評に突っ込み返す……それはさておき、2作品とも演奏は素晴らしかった。この日も多くの作品でステージに立った辺見、上田、多井は、現在のnext mushroom promotionの屋台骨を支える3人だと言ってよいだろう。前田作品の特質は、作曲者自身の暖かみのあるピアノに寄り添わず、冷徹な「再現」に徹した辺見の姿勢によって際立ち、森田作品における上田のスリリングなプレイと多井のクールなサポートは、作品を演奏が超える、クラシックでは日常的だが現代音楽ではまだ珍しい瞬間だった。

 次に、シュパーリンガー作品を演奏順に振り返る。講演でも言及された《4つの小品》は、各曲単純に図式化(講演では実際、「プロセス性」の例として各曲の展開の概念図を黒板に描いてみせた)される単純なアウトラインに沿って進み、平均すると1曲1分に満たない。講演からは、各曲ひとつのコンセプトに集中したアメリカ実験音楽的な作品という印象を受けたが、実際の曲は前衛語法に基づいた表現的なものだった。オープニングらしいあっさりした演奏(Vo.:太田真紀, Vn.:辺見, Vc.:多井, Cl.:上田, Pf.:川島)。《128の満たされた瞬間》は、音程関係(ユニゾンと和音の間)・所要時間・音程の明瞭度(通常の奏法とノイズの間)に4通り、音量変化に2通り(クレシェンドかディミヌエンドか)の段階を設けた4×4×4×2=128曲の断片から自由に選択して演奏する、という作品(Vo.,Cl.,Vc.)。この日は川島が行った断片の選択をもとにACCORD盤にならって3部に分け、作曲者の意向も反映して上演された。演奏会の前半・後半にまたがって置かれているが、便宜上ここでまとめて扱う。第1部はC音のユニゾン、第2部は比較的長く休符の多い断片、第3部は短くリズミカルな断片を中心に構成したとのことだが、第1部は息を吸いながら発音するような微小音響にスポットを当て、第2部はピアニッシモから絶叫までダイナミックレンジが広く、第3部は静かにビートを刻み続けて最後に急に盛り上がって終わるという、ひと続きの曲としては伝統的とも言える構成になっていた。これは現在のシュパーリンガーの志向であり、川島の志向でもある(川島は、明快なストーリーを忌避する態度の方が古いと感じているようだ)。演奏は、上田と多井はこの曲でも高い水準を保っていたが、太田は別格。躊躇とか羞恥とか、その類の言葉をどこかに置き忘れてきたかのような思い切りの良い発声。しかもそのインパクトは、「女性」の部分に全く依らずに成立している。

 前半最後の《音響恐怖症》は、このプログラムの中では最も早く書かれた作品だが、筆者にとってはこの日のハイライトだった。Fl.(奥田律), Ob.(川上佐和子), Cl., Fg.(岡本真弓), Hrn.(里田泰昭)の5本の管楽器が聴衆を取り囲み、特殊奏法を駆使して迫る。声を出しながら吹く奏法に加え、呟きや絶叫も演奏の一部なのはヘスポス作品でも見慣れた情景。「前衛の時代」の充実を実感させる密度の濃い時間だったが、ラッヘンマン作品のような緊張感に満ちた「間」は挟まずにひたすら音を詰め込んでいくので、後半になると感覚が麻痺してくることも事実。本作の真のクライマックスは、音が完全に鳴り止んでから訪れた。《extension》のような型破りな作品を聴いているだけに、まだ何か起こるかもしれないと聴衆が身構えているところに、廊下の方から低い持続音が聴こえ始め、ゆっくり下降しながら消えていった。クレジットにはないTb.を最後に使ってくるとは……と思いながら拍手し、休憩時間に譜面を覗いてみると、確かに五線譜上に下降グリッサンドの軌跡が書き込まれ、"TB"という文字もある。でも、ドイツ語の譜面なのになぜ"TB"? と思いながら廊下に出ると、そこには入場時にはなかったCDラジカセが……そうか、tonband(サイレンの録音だという)だったのか! 「前衛的」な手管よりも、こういう拍子抜けするような手口の方が結局面白い、という突き放した視点(注2)は貴重だ。

 《off》は今回演奏された中では最新作。響線をoffにした6台のスネアドラム(大竹秀晃、葛西友子、吉川朋子、真田千依、瀧住まどか、山縣雅志)が聴衆を囲む。金属枠の一部をラバーシートで覆い、そこを撥で叩くと木質の打撃音が得られるのがポイント。単なる皮質と木質の打撃音の往復ではなく、皮を指でなぞるかのようなppppの合いの手もしばしば入る。音楽の展開は均質な音型の密度変化に専念し、ヘテロフォニーはあってもポリフォニーはなく、空間配置を生かした音のやり取りも聴かれなかった(注3)。この作品に彼のここ20年を代表させているわけではないだろうが、作曲者と直接コンタクトを取った企画にもかかわらず旧作中心の選曲なのは、企画者の作曲家評価の反映なのだろうか(注4)。最後の《さようなら、わが恋よ》は、Vn.とVc.がデュファイの同名作品の断片をノン・ヴィブラートのかすれた音色(ガット弦を緩く張った楽器による倍音奏法:詳細はプログラムノート(注5)参照)で奏し続けるが、途中数回だけスル・ポンティチェロで不穏な持続音を伸ばす、そのタイミングを聴かせる曲。「伝統的」な身振りの中でコンセプチュアルに振る舞う、同時期のケージを思わせる側面もあるが、コンサートの締めくくりとして思い切りノスタルジックに弾いた解釈は、これはこれで正しい。Vc.がステージ中央に座りVn.は客席前列端で立って弾く設定にも、空間性や劇場性という言葉が想起させるような実験性は感じられず、「流しのヴァイオリン」の親密で物悲しい雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。

 筆者が聴いたnext mushroom promotionの公演は、2003年2月のクセナキス特集以来になる。この演奏会のために楽器を特注するなど意欲的な企画だったが、演奏に関しては辺見と鈴木貴彦以外の印象は薄かった。だが、その後も公演を重ねる中で団体として成長し、選曲も全メンバー均等出演を旨とする従来型のものではなく、流動的な編成で一部の熱心なメンバーに負担を集中させることで、演奏の密度を高める方向に向かっている。東京藝大の学内企画を始めてから10年余り、川島にとっての現代音楽企画のひとつの到達点がこの形態なのだろう。ひとりの作曲家の単なる紹介にとどまらず、その可能性の中心と限界まで見切った今回の公演の充実ぶりは、この方向性の正しさを示している。彼はさらに個人ウェブサイトを開設し、より小回りの利く形態で個人企画も始めている。彼の師の近藤譲は、現代音楽アンサンブル「ムジカ・プラクティカ」を1980年から10年余り主宰し、メンバーに経済的負担を求めない「クラブ活動」の範囲で武満らが取りこぼした海外の動向を伝えてきた。「ムジカ・プラクティカ」の主要メンバーだった佐藤紀雄曽我部清典井上郷子らは、現在も思い思いに現代音楽の演奏会企画を続けているが、この姿勢は次世代にも着実に受け継がれている。

 なお、本稿は、川島氏のご指摘に基づいて事実関係に正確を期した改訂版です。また、本レビューの初稿掲載後、大井氏はblogで徹底的な作品解説を行っています。

(2005年2月27日 丸太町・京都ドイツ文化センター

(注1) 客席にはハサミ、カッター、水の入ったコップなどが置かれていたが、これらは単なるセッティングの名残で、積極的に楽器を傷める行為が可能性として想定されていたわけではないとのこと。そのようなことがあってもおかしくないと思わせる奏法の連続だった。

(注2) 「特殊奏法」で音空間を埋め尽くすと、聴き手はいつしかそれに慣れ、通常の奏法よりも表現力に乏しいというネガティヴな側面の方が耳につき始める。そのプロセスを逆手に取って、最後に奥の手を出して一発逆転。ラッヘンマンが《Kontrakadenz》や《Gran Torso》で「特殊奏法の組織化」という方向性を確立した翌年に、シュパーリンガーはここまで来ていたとは! この気付きのインパクトは大きく、演奏の詳細の記憶が飛んだばかりか、奏者の移動や退場という捏造された記憶が、いまだに映像を伴って浮かんでしまう……

(注3) この編成とサウンドは「無伴奏和太鼓合奏」という日本の擬似伝統音楽を連想させるが、譜面では金属枠のラバーで覆われていない部分への打撃も、奏者の並び順に拍をずらしたリズムカノンも指定されており、少なくとも作曲者にはその意識はなかっただろうとのこと。

(注4) 川島氏によると、そのような意図で選曲したわけではなく、適切な作品がなかったとのこと。確かに作品表を見ても、80年代前半までは室内楽をコンスタントに書いていたシュパーリンガーだが、それ以降は「大編成作品を時々書く」創作ペースに変化している。ただし、同じ会場で行われたラッヘンマン特集における、全体像の紹介を優先して無理を厭わなかった選曲と比べると、やはりある種の見切りはあるように感じる。

(c) 2005 Yoshihiko NONOMURA

(注5) 現時点では、この作品のオンライン・プログラムノートはIE以外のブラウザでは正しく表示されない。念のため、ソースを以下に引用する:

 シュパーリンガーは、その音楽体験の最初の時期を、古楽とともに過ごした(略歴参照)。その記憶が最も強く反映されているとおぼしき作品が、この作品である。デュファイの同名の楽曲を下敷きにしていることに加え、2つの弦楽器はどちらも古楽用のガット弦を張って演奏することが要求されている。チェロが[G'/D/G/d]、ヴァイオリンが[d/g'/d'/g"]という、極めて緩められた調弦が要求されており、それだけでも演奏は困難を極めるが、更に、この作品では、「fawsett」という特殊なフラジオレット奏法が要求されていて、その静謐な楽曲の外観とは裏腹に、極めて演奏困難かつ記譜通りの上演についてリスキーな要素が多い作品である。この「fawsett」とは、運弓のポジションを微妙にコントロールすることによって、異なる倍音を出す奏法である。通常の倍音奏法は、指を軽く触れることで基音に対する上方倍音を出すのだが、ここでは、弓が触れている弦上のポジションが、結果として出る音の高さを決定付けるので、演奏者は、通常の運弓法では全くありえないような困難な制御を余儀なくされる。この奏法のみならず、運弓場所の制御は様々な問題を呈しており、例えば左手で押さえているポジションの反対側の運弓という奏法があり、これはまだ比較的「一般的な特殊奏法」(このような矛盾した表現が適切かどうかはさておき)に分類されるであろうが、しかしここでは、その上さらに、同時に弦のレゾナンスを止めておくべき場所、そして、運弓するべき場所まで、楽譜に示されているため(つまり1音に対して3つのポジション指定がされていて、実際その通りに弾かないと求められている結果は得にくい)、ここで一見「一般的な特殊奏法」に聴こえる音響も、実際には極めて特殊で繊細な制御の結果であるということが言えるのである。全体は4つの部分からなり、デュファイを下敷きにしていることもあって楽曲の響きそのものは、本日の演目中、最も「調性的」である。しかしだからこそ、演奏困難度が一層高まる(音程のごまかしが許されない)わけで、その結果、極めて繊細な聴取体験が実現するであろう。微妙な音の移ろいに、耳を澄ませて頂きたい。((c) 川島素晴)

→ Brief Report - 05/04/06 菊地秀夫&太田真紀ジョイントライヴ
→ Live Review - 03/12/03,04,07 ヘルムート・ラッヘンマン来日
Brief Report - 03/11/19 井上郷子ピアノリサイタル - クンス・シムのピアノ曲
Live Review - 03/10/22,24,25 リュック・フェラーリ再来日<Paris-Tokyo-Paris>
Top Page