Dark Room filled with Light: Premiere screening and live soundtrack recording

大谷 能生

 この春、渋谷区神南から宇田川町へと場所を変えたUPLINK FACTORY。90年代初頭から映像・音楽・美術その他、多ジャンルにわたって個性的な表現を擁護してきたこのスペースが移転すると聞いたときは、「あー、またひとつインディペンデントな活動の拠点が消えちゃうのか」と思い、クローズ間際のイベントに出演した際になんだか湿っぽいMCをしてしまった記憶があるんだけど、ところがどっこい。新しい場所に行ってみると、ビルの入口には立派な厨房があるカフェ/レストランがあり(「タベラ」という名前)、その奥にはギャラリーも兼ねたバー・スペース、ビルの2Fに上映室(UPLINK X)、1Fに多目的スペース(UPLINK FACTORY)が併設され、これまでよりもずっとゴージャスな、栄転といってもいいような場所移動だったのでした。凄い。と同時に、大丈夫なのか(経営は)? 無理しない方がいいんじゃないのか? と余計な事を思ってしまったのも事実で、でも店全体の雰囲気は宇田川町に違和感無く馴染んでおり、この日もレストランでは貸切のパーティが行われて繁盛している模様。いらぬ心配は他所に、このまま淡々と20年ほどは頑張って欲しいと思います。新しい上映スペースである「UPLINK X」をはじめて訪れ、生西康典・掛川康典・永戸鉄也が制作した映像に、Filament(Sachiko M、大友良英)がライブでサウンド・トラックをつけてゆく「Dark Room filled with Light: Premiere screening and live soundtrack recording」と題されたイベントを見る。

 1日2回、それぞれ1時間ずつの上映&演奏で、僕は2回目の公演を鑑賞。キャパ30名ほどの客席は満員で(「日本一小さな映画館」とのキャッチ・コピー有り。確かに、関内アカデミー2が閉館してしまった現在、常設館としてはここが最小だろう。)、スクリーンを挟むように客席から向かって右側に大友良英、左側にSachiko Mが位置についており、空調を切った後上映がはじまった。最初はデジタルの砂嵐的なノイズ画面が映し出され、しばらくしてから一面の白画面へ変化。スクリーン一杯に2種類の階調の白画面が交互に映し出され、その転換の間合いが微妙に変化してゆく、という場面の後、白から濃い灰色までのグラデーションで作られた映像が、地と図、具象と抽象の区別をぎりぎり付けられないようなバランスで配置され、さまざまなテンポで入れ替わってゆく。

 「光で充たされた暗い部屋」というタイトル通り、暗室の中の光はスクリーン上の白の映像だけであり、しかし、白の色調だけにフォーカスを当てることによって、白光の階調の多彩さを充分に定着することに成功した作品だったと思う。ところどころ鉄条網や鳥を思わせるようなモチーフが挿入・展開される場面があり、パンフレットを見ると3人で映像を制作したように受け取れるが、どのような手続きでもって映像が作られていったのか、気になるところだ。また、何種類かのモチーフが重ねられる瞬間も途中であらわれ、これはもしかして3人がリアル・タイムでVJを行なっている、つまり、映像もライブでジェネレートしているものなのか? とも上映中は思ったのだが、後日メールで大友良英とSachiko M両氏に訊ねてみたところ、映像作品は完全に固定されたもので、1回目も2回目もまったく同じ映像だったそうだ。

 Filamentの演奏は、こういった映像に対して合わせる/合わせないといった意識的な配慮(とは、しかし一体何か?)はまったく感じられず、いつものFilamentのコンセプト通り。演奏する場所に対してそれぞれ作曲をおこなうというやり方で、相当にパワーの稼げるUPLINK Xの音響設備を十二分に使い、重低音の持続とそのON/OFF一発で会場全体の空間と時間の輪郭が明確になり、映画館というスペースが時間に従ってどんどん音響的に彫刻されてゆく様は余裕の貫禄すら感じられた。光の質の変化というものも環境に影響を与える確かな要因の一つであり、光によってもFilament的な表現を得ることは出来るだろうし、おそらくここでの映像作品は、白の階調によって闇と光のあいだにある様々なスペクトル、見ることの基盤に関わる光の質/量の意識化にフォーカスを当てて作られているものではないかと思う。この映像作品がフィルムではなくデジタル・ヴィデオ・メディアで作られているのは、フリッカーによって映像にノイズ的なテンポが混じってしまうことを避けるという目的もあるのだろう。映像は最後に、また冒頭のノイズ画面に戻って終了。Filamentも作業を終えて、演奏を終了させる。

 たとえば、この作品がDVD化され、各人が自分の家の再生機器でもってプレイするようなかたちで流通することになったとする。その場合、その作品鑑賞によって得られる経験は、各人の再生メディアと、それに対する対峙の仕方によって大きく異なってくるだろう。これは勿論Filamentの音楽にも等しく当てはまることであり、というかむしろFilamentというユニットの音楽的実践を通して、我々がはじめてはっきりと考えることが出来るようになった事柄であるが、聴覚に比べて視覚メディアの方がこの問題を取り巻く思考に関しては立ち遅れているように思われる。スクリーンに映る影像のかたちは、その周囲が暗闇=静寂だからこそはっきりと光り輝く。音楽においてはどうか? 

 この作品を真昼のテラスでパソコンを使って、または部屋の蛍光灯の下でブラウン管の上で眺めたら、そこにはどのような経験が生まれるのか。そしてその経験を、人は現在どのような文脈でもって語ることになるのか。聴覚の領域においてFilamentが提起してきた問題が、現在、ようやっと、芸術上のさまざまな分野で検証される段階に入ってきたのではないか思う。

(暫定版:近日中に加筆予定)

(2005年7月1日 渋谷・UPLINK X)

(c) 2005 Yosio OOTANI