杉本拓作曲シリーズ第3回:オペラ《南十字星》(2006) |
野々村 禎彦 |
前回までは「Kid Ailack作曲シリーズ」と銘打たれていたこの企画は、今回から「杉本拓作曲シリーズ」となり、企画の対象がより鮮明になった。この回は「オペラ」と告知され、前回以上の聴衆を集めた。テキストを持ち、音楽を含み、視覚的要素が統合された舞台作品がオペラならば、飯田克明(杉本らの呑み友達だという)が鴨長明『方丈記』(岩波文庫版)を淡々と朗読し、中村としまる(no-input mixing board)と宇波拓(laptop with objects)がユニゾンで淡々と音響を発し、杉本が下北沢のスナップ写真を淡々とスライド上映する、そんなパフォーマンスを「オペラ」と呼んでもよいのではないか。なんといっても上演日は4月1日であり、出演者も仕掛けもフライヤーの予告通りなのだ。
これは杉本の「作曲作品」だが、彼によると確定されているのは各人が行為を始める時間と終える時間の枠のみ。24分3楽章という大枠のもと、ひとつの時間枠の中ではなるべく均一に行為を行う(朗読は表情をつけず、即興演奏は出し始めの1音を保ち、スライドは1枚を映し続ける)ことのみが指定されている。時間枠にはオンとオフがあり、朗読と音楽ではオフは沈黙、上映ではスライドが入っていない枠で投光する(シャッターを下ろすのではない)ことに相当する。オンオフの時間枠は3要素で微妙にずれているが、最初はオンオフがほぼ同期し、しだいにスライドが沈黙を埋めるようになり、やがて朗読と音楽も同期しなくなる傾向が、3楽章の区別に相当するものと思われる。
リアリゼーションに関して言えば、朗読の時間配分は適切に行われ、読み終わりから一呼吸置いて最後の音楽セクションが始まった。テンポも均一で、読み急いだ箇所はなかったが、朗読の精度は今ひとつ。漢字や古語の読み方レヴェルのミスが耳についた。音楽は心持ちテキストに寄り添っていた。天災の被害を読み上げる場面では、硬貨やパチンコ玉を大きく鳴らし、耳障りな高周波発振音を被せるのに対し、終盤に向かうにつれてホワイトノイズ的な柔らかめの音響に移行してゆく。スライドは、見事なまでに日常の風景。朗読とも音楽とも積極的な関係性が生じないような写真ばかりが選ばれた。ただし、どの写真もアングルには癖があり、撮影者杉本の意志は込められている。
では、この「作品」と「解釈」をどのように捉えるか? まず、論理的にはテキストは何でもよかったはずだ。地下の物販スポットでは、飯田の詩とボヤキを起こした文書が無料配布されていたが、続けて30分前後で朗読できる分量なら、これでもよかった。最後は終わりらしく終わった方がよさそうだが、そのような雰囲気の詩も中にはある。ひとつだけ確かなのは、そうしていたらこの会場が満員の聴衆で埋まることはなかった(「風変わりな現代オペラ」を期待したと思しき、普段はこの手の会場では見かけない聴衆もちらほら)ことで、「何でもよい」以上は『方丈記』で悪い理由もない。また、「何でもよい」のだから朗読の精度も問題ではない。「対象との距離を保つ」「批評的な覚醒を促す」といった理由で、読み間違えの多さを積極的に評価するのは筋違いだろう。それならば、読み間違えを含めたテキストを作らなければ不徹底だ。再演を重ねて読み慣れてしまったら朗読者を交代するのも、一定の割合で意図的に読み間違えようとするのも、杉本が目指している「ソリッドなもの」(注)とは程遠い。
音楽のあり方は、1回の公演では判断が難しい。テキストにそこはかとなく寄り添った、仄かに「音楽的」な音響は筆者好みだが、作曲者の意図とは若干の齟齬があるかもしれない。この「解釈」の是非は、「時間枠を埋める作業」に徹した演奏と聴き比べてみなければわからない。スライドに関しては、技術的な部分で気になることがいくつかあった。まず、スクリーンに対して映像が小さく、後方の席からは見辛かった。プロジェクターをこれ以上下げると入口通路を塞いでしまうためだが、入口は一方にしかない会場なので、セッティングを左右反転すれば済んだはずだ。朗読者と演奏者が入口側に集まる配置はバランスが悪いことは確かだが、この作品にはそれも良かったのではないか。また、スライドを1枚おきに入れると、一度の押し間違いでオンオフが反転してしまうので操作者のプレッシャーが大きくなる。2枚おきに入れてデフォルト操作は二度押し、1回間違えてもまだ余裕がある方がよいのではないか。映写する写真は「何でもよい」とは思えないが、今回が「唯一の正解」でもないはずで、色々なパターンを見てみたい。
このテキストで「現代オペラ」を書いたとしても、これに匹敵するものは稀にしか生まれないことはひとつの現実だが、だからといってこれでよいのだろうか。最も本質的な音楽的構造は時間枠であり、それ以外の音楽要素は偶然に委ねても十分面白い出会いが生まれる、というスタンスは50年代ケージが仕組んだハプニングそのものだ。沈黙が主体の音楽を十把ひとからげに「ケージの亜流」と切り捨てるのは批判としてあまりにレヴェルが低いが、本作はそれとは別な次元でケージの掌から出ていない。「作曲」のプリミティヴさは杉本拓ギターカルテットの頃まで戻った感があるが、このような音楽すら「即興音楽」として受け入れられる時代が来た、と音楽社会学的に評価することが可能だったギターカルテットとは違って、本作はパフォーマンスの歴史の中で評価するしかない。ただし、本作は杉本の最初のマルチメディア作品である。現時点での器楽のための作曲法を焼き直すのではなく、まず原点に戻る姿勢は間違っていない。この試みに性急に評価を下すことは避け、杉本の今後の取り組みを息長く見守りたい。【06/11/19 追記:本作の「簡易版」が上演されたので、その概要を報告した。】
(注) フリーペーパー『三太』第1号の杉本拓「ふたつの世界」参照。乱暴に要約すると――音楽には本質的で引用不可能な「ソリッドなもの」と、それ以外の「アトラクティヴなもの」があり、俗情に訴える後者が美術の場合同様圧倒的に人気がある。素材や音色に依存して形式や構造の革新を目指さないないのが後者の特徴であり、デレク・ベイリーの音楽は両者の境界に位置している。かつての彼は「ソリッドなもの」だったが、晩年は「アトラクティヴなもの」になった――ということになる。時間枠=音楽的構造以外の部分が演奏者の固有性に委ねられている音楽は、もはや「ソリッドなもの」とは言えない。
(2006年4月1日 明大前・Kid Ailack Art Hall)
(c) 2006 Yoshihiko NONOMURA