山内桂・東京圏ツアーより:ソロ@なってるハウス

野々村 禎彦

 大分県でインディペンデントな音楽活動を続けている山内桂(Saxes.)は、数ヶ月に一度上京しては研鑽の成果を問うツアーを続けている。前回の東京圏での公演は、本サイトでも取り上げたドネダとのデュオが中心だったが、今回の公演はソロが中心。2006年5月下旬は筆者にとって興味深いライヴが日々重なっており、山内ひとりを何日も聴き続けることはできなかった。本稿で取り上げるソロ公演は、東京23区内の近場で連日ライヴを行うツアー日程に加え、直前に夕立ちに襲われたこともあって聴衆は決して多くなかったが、彼の音楽が新たな段階に入ったことを静かに告げる素晴らしいものだった。

 ファーストセット1曲目のアルトソロがこの日の白眉。即興サックス奏者の多くは、実音か息音のいずれかに焦点を絞って特殊奏法を限界まで極めようとする。前者の代表がE.パーカー姜泰煥、後者の代表がドネダや大蔵雅彦ということになる。ブッチャーは両者を射程に入れているが、実音による特殊奏法の探求を息音にも拡大する、というスタンスである。だが山内は、素材としてはあえて平凡なものを選び、実音と息音の間の移行や重なりの可能性のみを探査する。実音でも息音でも、本体の鳴りとマウスピースの鳴りは異質なものであり、息のコントロールによって少なくとも(実音/息音)×(本体/マウスピース)の4通り、さらにキーの位置によっては複数の音響が同時に鳴る場合もある。実音+実音以外の「重音」は、従来は偶発的な音響とみなされてきたきらいがあり、これを系統的に精査する試みはおそらく先例がない。

 ファーストセット2曲目は、作曲作品<筑紫>。会社員時代から釣りに打ち込んでいた山内にとって、九州中の川は庭のようなものなのかもしれない。ソプラニーノソロのためのこの曲は、楽器本来のチャルメラのような音色をさらに強調し、キー操作なしでも出せる単純な倍音のみで構成されている。集団即興ではもちろん、ソロ即興でも有り得ないようなシンプルな音型の連続だけに、確定的な作曲が必要になる。音響の細部を凝視するためにはこのくらい単純な音型の方が良いはずだ、という割り切りが潔い。

 セカンドセットもアルト/ソプラニーノを交代で吹くという前半の規則性を守り、この順にソロ即興を1曲ずつ。今度はアルト即興では「自由即興音楽らしい」音型を多用し、ソプラニーノ即興では息音と実音の往復運動(構造上、アルトのような複雑な重音は出ない)に専念する。そして最後は、ファーストアルバムのタイトル曲<Salmo(鮭)>。単純な下降スケールを繰り返す、ソプラニーノソロのための作曲作品だが(注1)、調性感を意識せずに聴けるのは、こちらが聴き慣れただけではなく、下降音型を極めて均質に吹けるようになったからだろう。総じてファーストセットよりも技巧面にスポットが当たっていたが、似たようなことを繰り返したくないという意志は強く感じ取れた。

 終演後、彼の探求のオリジナリティについて確認すると、「なぜか誰もやっていないだけで、誰でもできることなのでは?」と謙虚過ぎる回答が返ってきたが、100mを9秒台で走るタイプの「技術」だけがオリジナリティではないはずだ。むしろ、「一見簡単そうだが、そこに<音楽>があるとは誰も思わなかったこと」こそが、真のオリジナリティではないか。また、「息音と実音の移行」や「息音と実音の重音」自体は山内以前にも試みられたはずだが、「それだけで1曲を支えられる音響現象」だと気付くことが重要なのだ。ケージ以前にも、ピアノの中に紙や食器を入れてみた音楽家は大勢いただろうが、それが「ピアノを異化した音響効果」ではなく、「全く新しい打楽器」だと気付いたのがケージの功績に他ならない。もちろん、山内のこの演奏自体も、「誰でもできること」ではない。特徴的な傷のある麻雀牌数牌をガン付けすることは誰でもできるだろうが、136牌全部を覚えることは原理的には同じとはいえ、もはや神業であるように。

 また、山内自身は自らの探求を、「この楽器の源流を探ろうとする音楽家や最先端を探ろうとする音楽家は多いが、僕はその中間を探りたい」と語っていた。これは直接的には、即興よりも作曲作品を意識した発言のようにも思えるが、先に挙げた即興音楽家たちの多くも、確かにこの分類に当てはまる。姜が「源流」、大蔵が「最先端」の代表だとすれば、ドネダは両方に半分ずつ足を突っ込んでいる(注2)。山内の「どちらでもない」という自己認識は正しい。先日のドネダとのデュオの成功は、両者の間を揺れ動くドネダを、「どちらでもない」彼が支えたということだったのだろう。それだけに、今後は「どちらでもない」領域を共有できる音楽家とのデュオが待たれる。次回2006年8月の東京圏ツアーでは、Sachiko Mとのデュオが既に予告されており、今後も彼の動向からは目が離せない。

 なお、即興音楽のある様式は、ムーヴメントとしては10年程度しか続かない。それを超えて何かが続いてゆくには、異形の後継者が不可欠だ。それに相当するのは、ヨーロッパ自由即興音楽では、レアンドルドネダのような、先行世代とは出自も志向も異なる音楽家たちであり、NYダウンタウンシーンでは、中央ヨーロッパや日本における、誤解も混じった(注3)「インプロ」シーンの爆発だった。それでは音響的即興では? それは、山内ジャック・ライトのような、このムーヴメントの中で自らの居場所を見出した年長世代の音楽家たちではないだろうか。録音物を聴取体験のベースに持つ、「音響派」の記憶を受け継ぐ世代にとって、年長世代はもはや無条件に粉砕すべき対象ではない。

(注1) 初稿では使用楽器の記述に事実誤認がありました。お詫びして訂正致します。

(注2) E.パーカーは、かつては「最先端」を目指していた音楽家だったが、彼の本質的探求はムーヴメントとしてのヨーロッパ自由即興音楽とともに終わり、現在は循環呼吸と重音奏法の精度を高めつつ、弦楽アンサンブルやデジタルプロセシングといった、楽器の外側の出来事で自らが確保した領域を飾る音楽家になった。それを「最先端」と勘違いしない限りは、このような「成熟」にも一定の価値はある。

(注3) ジョン・ゾーンがプロンプターを務める《コブラ》と、巻上公一がプロンプターを務める《コブラ》の差異はその典型だ。ただし、この「誤解」は必ずしもネガティヴなものではなく、新たな創造の過程の一部だと筆者は考えている。

(2006年5月24日 入谷・なってるハウス

(c) 2006 Yoshihiko NONOMURA

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