eX. 3 川島素晴ソロリサイタル「ミューズの贈り物」

野々村 禎彦

 川島素晴は作曲家としての活動に加え、精力的なコンサート企画活動でも知られてきたが、2007年4月から企画シリーズを再編成し、月1回という従来にないペースで「eX.」シリーズを始めた。今回取り上げる第3回は、かつてはパフォーマンスも積極的に行っていた川島自身によるソロリサイタル。自作をはじめ、肉体を酷使する作品が並んでいる。なお、このシリーズではnext mushroom promotion時代の企画と同様に、公演前にレクチャーが開催されるが、筆者はこの回のレクチャーには参加できなかった。まずはセットリストから:

 オープニングは、アフリカ滞在を経たライヒの作風が、漸次移行プロセスからリズムパターンの不連続な移行に変化した時期の《Clapping Music》。拍手によるデュオをソロで演奏する手段として、川島は短パンのトレーニングウェア姿で登場し、左右の太腿を各々の掌で叩いた。細面に似合わぬ川島の下半身の逞しさは、彼のパフォーマンスを見てきた者は知るところだが、拍手には及ばないとはいえ、なかなか良く響いていた。一人二役のメリットで声部のズレのコントロールは完璧。ズレによるリズム感の変化にスポットを当てた解釈が意図通り達成され、あまりに合っていてスリルがないという贅沢な印象すら受ける。ただし、現代音楽のサロンコンサートはもちろん、プログレファンの忘年会でも定番の人気曲だけに「デュオの完璧な演奏」は珍しくなく、音色の限界の方が気になってしまうことも確か。むしろ、自分の録音と合わせる一人二重奏の方が一段上まで行けたのではないだろうか。

 続けて演奏された《Invention I》は大学卒業作品として書かれたが、不可で留年となった、曰く付きの「歌曲」。歌手は常に「は」音をさまざまなニュアンスで歌い(さまざまな漢字で表記してニュアンスを指示する)、打楽器(オリジナルはティンパニ、この版はフレームドラム)は歌にまとわりつくようなリズムで叩かれる。通常の二人演奏だと、声色の変化と冷静な打楽器の対比を聴かせる音楽になるが、一人二重奏だと声と打楽器の絡み合いが中心になり、この曲に限ってはこの演奏形態の方が面白いのではないか(シリーズの後の曲になるほど、声と打楽器の距離感がポイントになる)。川島の初期作品は、自身のソロ演奏を想定して身体感覚をシミュレートしたものであることを、この作品は示唆している。

 舞台奥の指揮台にヴァイオリンが置かれ、ロビンソン・クルーソー風の衣装に着替えた川島が登場して《孤島のヴァイオリン》が始まる。西洋文化から隔絶されて無人島で暮らす人が、漂着したヴァイオリンを拾って演奏を試みたらどうなるか、というシミュレーション音楽。これが大学1年の作品であり、豊かな発想に感心させられる。ヴァイオリンを発見するとまず背をコツコツと叩き始め、偶然弦に触れて音が共鳴することを知ると今度はそれを生かした打楽器奏法に移り、最後は楽器を正面から持って弦を両親指ではじく、カリンバ風の奏法に落ち着いて静かに終わる。弓がない場合のシミュレーションとしては合理的だが(構えてピッチカートという発想は、一度は弓で弾かないと出てこない)、弦の共鳴を利用した打楽器奏法の箇所は、弦を押さえるポジションも叩く位置も、この楽器をよく知らなければ有り得ない「よく響く」音楽でやや興醒め。コンセプトの徹底を取るか書法の徹底を取るかの選択で書法を取る姿勢は、その後の彼の歩みを象徴している。

 次のカーゲル《Exotica》は、1997年に川島の監修で全曲日本初演されており、今回演奏されるのはその中のソロパート。いかにも「土人」風の扮装をした西洋人に「非西洋楽器」を用いた似非民族音楽を演奏させ、エキゾティシズムから「民族音楽」を称揚する姿勢を揶揄するのが基本コンセプト。日本人とこの作品の距離は微妙で、西洋人が戯画化する「ニンジャ、ゲイシャ、ハラキリ」のイメージを自ら演じてこの曲に取り組むアプローチもそろそろ現れてよい頃だと思うが、この日は日本初演同様、「名誉白人」としてのアプローチ。川島は縄文人のような衣装で、ドレッドヘアのウィッグをバンダナで留め、顔にペイントしてトーキングドラムを持って登場。今回演奏されるのは、アンサンブル・モデルン全曲録音にも参加した中村功がソロ公演のレパートリーにしているのと同じ部分だというが、川島は練習中に、この部分のリズムが「田園」交響曲の第1楽章と全く同じであることを発見した。「非西洋音楽」では極めて重要なリズムが、クラシック音楽では軽い意味しか持たないことを巧みに利用した悪意の表象。カーゲルがこの点を演奏者には伝えたことはなく、この点を意識的に強調した最初の演奏になったが、さほどの違いは感じられなかった。この作品のエキゾティシズムは、音色(非西洋音楽的な楽器と発声)と視覚的要素に多くを負っている。音楽に没入した川島の演奏スタイルは学生時代から変わらないが、音楽との批評的距離を身上とするこの作品には少々そぐわない。また、この作品の音楽的モデルがいわゆる黒人音楽だとしたら、音と身体に距離を置いたクールさが演奏には必要なのではないか。

 このコンサートにはコスプレ大会の側面もあったが、《Exotica - solo》に続く転換はペイントを落とす手間もあって長く、アナウンスが入った。川島の真面目な人物紹介だが、中高時代は吹奏楽部で打楽器を担当していたこと、藝大時代の副専攻も打楽器で、高橋美智子に師事し彼女のレコーディングにも参加していることなどが語られ、彼の打楽器の腕前はセミプロ級であることが強調された。これは、次の曲が正装で登場する「指揮者ソロ」作品であることを意識したものだろう。Ensemble Bois第2回川島個展でもトリを飾り、現時点での代表作と目される《フルート協奏曲》(1999) の指揮者パートを抽出して改作したもの。オリジナルにおける指揮者は、指揮者を無視して音楽に介入しようとする独奏者に張り合って歌い叫び、動き回っていたが、指揮者ソロの今回の版でもこの基本線は変わらない。ただし、あくまでアンサンブルを指揮したオリジナルとは異なり、本作では舞台奥の指揮台に、観客に向かって立つ。オーバーアクションで指揮台から落ちそうになる箇所などはわかりやすく、オリジナルでは独奏者にアンサンブルを連れ去られて呆然と立ち尽くす場面を、指揮者が疲れて休む場面に変更した(これはエンディングの伏線にもなっている)あたりは納得できるが、なぜ指揮者が不自然に歌い踊るのかはオリジナルを知らないと理解できない。さらに残念だったのは、「指揮者が発作を起こして死んで終わる」という、ドイツ圏の指揮パフォーマンスを含む作品の常道に落ち着いてしまったこと。《フルート協奏曲》の魅力は、この常套的展開を避けたところにもあったのだが。

 指揮者が死に、舞台が暗転してさてどうするのかと思っていると、「ただ今より《4分33秒》の演奏を行います」とアナウンスが入った。演奏者紹介アナウンスを入れたのはこのネタの前振りだったのか、プログラムにある「環境音:川島素晴」というクレジットはそういう意味だったのか、と一挙に判明して場内爆笑。ただしこの曲は、瞬間的に笑いを取った時点で実質的に終わった。「全3楽章」という指定を無視したのはそういうことだろう。Deep Listening BandNon Stop Flight》でもそのように演奏されているとはいえ、こちらは全4時間33分の中でこの曲を数回取り上げるという構成があるので話は違う。「演奏」中も普通に客入れを行っていたが、これが2回だったのは仕込みではなく偶然だったとのこと。

 後半は川島の初期代表作《視覚リズム法I》から。藝大で師事した近藤譲の初期代表作と同一タイトルだが、タイトルと曲の内容は象徴的対応に留まる近藤作品に対し、本作は両手で木箱を叩き、両足で床を踏み鳴らすリズムと、その行為を寸止めして音は出さない「視覚リズム」の対比という直截な意味を持っている。両手両足に声が加わった5声部が絡み合う点も、5楽器のための近藤作品を意識しているのだろう。声も発しながら前のめりに叩き続ける場面が一段落し、ついた溜息が呼吸音セクションの導入部になる流れを強調した解釈は、後の「笑いの構造」の成果が還元されたものと思われる。実際、《視覚リズム法II》(1996) になると、「視覚的リズム」はむしろ笑いを誘うネタになっている。()

 次のファーニホウ作品のリアリゼーションに、この日のプログラムでは最も問題を感じた。作風移行期に書かれた作品自体も狙いが見極め辛い面があるが、「100円ショップ版」というコンセプトで通常の打楽器よりもチープな音色で構成しようとしながら、食器と調理器具を中心に、極力オリジナルの音色(楽器は自由選択なので、むしろ演奏伝統と言うべきだが)に近づけようとした選択は適切ではない。プロ打楽器奏者の演奏と比べた時の問題点(音価の不正確さ以上に、カーゲル《Exotica - solo》の場合と同様、音楽に没入しすぎて作品との批評的距離が失われていることが問題)ばかりが露わになってしまう。このコンセプトならばむしろ、いかに演奏伝統から離れるか(リズム対位法が表現できる最小限の音色変化に絞ってリズム構造のみを強調する、プロ奏者でも制御できないような音具を揃えて「それでも何が残るか」を提示するなど)を考えるのが筋だと思う。

 山根明季子作品は任意楽器(今回の演奏は大正琴が選ばれた)を伴う声のための音楽。タイトル通り、「まるいもの」(本作では、既存のテキストの子音をP音に置き換えたものと楽器のパルス)を集めて「丸く押し込んで標本化する」プロセスを淡々と提示する。川島による演奏を前提に書かれただけに、自ずと「この編成で川島が作曲したらどのようになるか」を想像しながら聴くことになる。川島ならば音を敷き詰めそうな箇所を堂々と沈黙のままにしている処理が、まず新鮮だ。時折足が踏み鳴らされるが、それも省いて「貧しい音楽」に徹した方が良かったと思う。本作の「貧しさ」は、音楽的/視覚的な過剰さに走りがちな川島の嗜好を知った上で、プログラムにコントラストを付けるためにあえて選択した(彼女は単なる委嘱作曲家ではなく、場内アナウンスも担当した公演の共同企画者である)もののはずだが、いつの間にか作品の前提条件になってしまった。後半はこの設定の上で緻密な構成が展開されたが、中途半端に情報量が多い状態が音楽的には最も退屈である。「丸く押し込んで」云々は「丸く収める」という意味ではないはずだが。

 半裸の演奏者が全身を叩いて発音するグロボカール作品は、パフォーマンス的なソロ公演の定番曲のひとつだろう。1989年のMusic Todayのグロボカール個展におけるガストン・シルヴェストルの演奏は、肉体の酷使に付きまといがちな感情表出をすっぱり切り落とした得難い体験だった。川島も学生時代には頻繁に演奏しており、筆者は1994年の足立智美企画「音、あるいは耳について vol.2」で聴いた。今回の演奏も、やり方しだいではいくらでもコミカル/セクシャルになってしまう所作を動く彫刻のように処理していたが、立ち上がって静止ポーズを決める部分で、濃厚なナルシシズム(おそらくは無意識の産物ではなく解釈の結果としての)が感じられたのが惜しまれる。ただし場内の雰囲気も、純粋に音楽に向かうものではなかった。作品の序盤は、両手で顔をさまざまに変形する際に生じる微細な音響を聴く部分。ひとしきり操作して福笑いのような表情が現れるたびにあちこちで忍び笑いが起こるが、筆者の主観では「あの川島先生がこんなことを」という質の笑いに感じられた。《3×3奏者のための協奏曲》(2005) や《cond.act/kon Takt/conte-raste III》などの近作もこの層に受けているのだとしたら、その反応に満足しているうちは真の実験精神には至れないのではないか。

 最後は、カーゲル《国立劇場》の<レパートリー>を締めくくる笑い。《Exotica》全曲演奏と同じ日に行われた1997年の演奏でも、この部分は川島が担当したが、見下されたと感じた聴衆から野次が飛んでいた。だが、この日の演奏ならばそのような誤解は考えられない。過剰さは尊大さを超えて狂気の域に踏み込んでおり、10年前同様に幕を下ろして演奏に区切りをつけたが、今回は幕が下りてからも延々と笑い続けていた。

 「秋吉台世代」最年少の川島はクラーニヒシュタイン音楽賞作曲部門を日本人で最初に受賞し、日本におけるヨーロッパ前衛再評価を先頭に立って体現していた。芥川作曲賞受賞作が、伝統的な「日本の現代音楽」から同時代のヨーロッパ前衛を通過した作品に転換したのも、彼が境だった。だが彼は、ヨーロッパの諸傾向のひとつを周回遅れで身につければ日本国内では評価され、リアルタイムで身につければ現地でも評価されるというあり方には満足できなかった。「線の音楽」「和声研究」などの独自語法を提唱し、地道にオリジナルな創作を続ける師に続くべく、「演じる音楽」「笑いの構造」という独自のコンセプトを打ち出した。演奏会企画に積極的に取り組み続けたのも、ムジカ・プラクティカを主宰した師を継ぐ態度だった(紹介する作曲家の傾向は大きく違うが)。だが、川島はある面では師を誤解していた。彼は、自らの音楽を言葉で矛盾なく説明する近藤の知性を高く評価していたが、実は近藤の作曲は完全に直感的に行われており、紡がれる言葉は完成後に自ら分析した結果だった。他方、90年代末以降の川島作品は、クラシック作品の莫大な引用や急速に変化する演奏困難なパッセージで埋め尽くされているが、ロゴスによる構成を音に変換した作品に共通する既聴感が拭えない。自らの身体感覚を頼りに手探りで書き進める代わりに、予測可能な書法の洗練と複雑化へと向かった代償は大きかった。

 しかし、ここに来て彼の意識も変わり始めたようだ。Ensemble Boisの第1回川島個展の選曲は、《ポリプロソポスI》(1995) をはじめ1996年までの作品が中心だった。《Invention IV》(2006) では自ら声を担当し、器楽のパッセージを声に転写する過程でリミッターの外れた演奏を聴かせた。そして、1994年までの自作を中心に、学生時代以来というパフォーマンスに挑んだ今回。これが、演奏会企画のリセットに伴う1回限りのイヴェントではなく、今後の創作にも反映される新たな一歩になることを願いたい。

(2007年6月8日 錦糸町・すみだトリフォニーホール 小ホール)

() しばしば誤解されてきたが、川島の言う「笑いの構造」は、決して「笑いを取るための構造」ではない(従って、「笑えないので失敗」というような評価は全く的外れである)。聴衆の期待に半ば添いつつ半ば裏切る、笑いをもたらす語り口(それ自体が可笑しいわけではなく、そこに適切なネタが加わって初めて笑いが取れる)のことである。彼はかつて筆者に「<笑いの構造>の最高の例は、ベートーヴェンのピアノソナタ」だと語っている。その後の彼の問題は、本来のコンセプトにもかかわらず言霊に呪縛され、笑いを取ることを意識し始めた点にある。

(c) 2007 Yoshihiko NONOMURA
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