小石川フリーコンサート:鈴木治行「語りもの」全曲公演 |
野々村 禎彦 |
文京区立小石川図書館は、音楽資料の収蔵と貸出を先駆的に始めた公立図書館として全国的に知られており、音楽資料専用室を有する圧倒的な情報量ゆえ、音楽家たちからも支持されてきた。その音楽家たちが自らの作品や手持ち資料を寄贈することで、通常の公立図書館では考えられないような多岐に亘るライブラリーが形成されてきた。また最上階には視聴覚ホールがあり、かつては落語会や音楽会が定期的に行われていた。だが、小泉政権成立と前後しての文化予算削減に伴い、この種のイヴェントを継続することは困難になった。
この状況を受けて結成されたのが、ボランティアグループ「図書館を利用する音楽家の会」であり、2002年暮れの第1回以来、年数回の頻度で「小石川フリーコンサート」を続けている。会場使用料こそ発生しないが、楽器運搬・ピアノ調律などの必要経費補助は一切なく、また非営利企画という原則ゆえ、入場料カンパはもちろん会場での物販もできないという、企画者にも出演者にも厳しい条件でのライヴである。そのため、出演者の顔ぶれや傾向はある程度固定されているが、客入りに拘らないからこそ可能な企画や、常連相手のライヴスペース公演という形ではないからこそ起こり得る出会いもあるわけで、企画の幅は徐々に広がっていった。
今回取り上げるのは、鈴木治行「語りもの」シリーズ全作公演。本サイトでは第4作《沈殿−漂着》を取り上げたシリーズの再演とシリーズ最新作初演からなる、この企画では初めての現代音楽公演である。現代音楽とは言っても、鈴木の音楽がこのジャンルの一般的な枠には収まらないのは周知の通り。特にこのシリーズでは演奏家もしばしばクラシックの伝統の外側から選ばれてきたが、今回はフリーコンサートの常連出演者とプロデューサー内山誠(本サイトでは、彼の最初の企画だったSachiko M&山内桂デュオを取り上げた)の人選が噛み合って、このシリーズにふさわしい音楽家が揃った。まずはセットリストと演奏者から:
ほぼ作曲年代順のプログラミングだが、1曲だけ入れ替えて前半に大きめの編成の曲を集めた構成。前半2曲は、初演の実演や録音に接した限りでは印象が薄かったが、語り手が代わるとこうも音楽の聴こえ方が変わるのかと驚かされた。《陥没−分岐》の初演では「歌曲」チームと「ソング」チームと朗読が錯綜する一方、カオスの個々の構成要素は伝統的なので、コンセプトが先に立った居心地の悪さを感じた。だが、今回の秋山の落ち着き払った父性的な語りは、ローザ・ルクセンブルクの第1次世界大戦中の書簡を中心とするテキストを音楽の中心に位置付け、2種類の音楽の伝統性は、この時代を描写する必然だと納得させた。この落ち着いた雰囲気は、太田&清水チームの衒いない真っ直ぐな歌唱と、「歌ってしまえば自分の歌」な原&河合チームの、図太くアクの強い歌いっぷりにも依っている。ただし、音楽はこの次元で終わっているわけでは決してない。むしろ見取り図が鮮明になったことで、単なる異種2チームの並置ではなく、鍵盤奏者ふたりでひとりの歌を伴奏する場面や、鍵盤楽器どうしが和音をぶつけ合って互いに調律を4分音ずらした効果を明示する場面などを挟む、一筋縄ではいかない構成が浮かび上がってきた。
他方、《浸透−浮遊》の初演(実演は聴けず、「作曲フォーラム '99」における鈴木のプレゼンテーションで聴いた録音)では語りが常に前面に出て、鈴木が意図したアンサンブルとテープパートとの並列関係は達成されていなかった。だが、今回の佳村の語りは、彼女のヴォーカルのアンニュイな雰囲気はそのままに、テキストの意味性が後退し言葉がサウンドとして浮遊する、鈴木の意図通りのバランスが実現した。アンサンブルが「ライヴ音楽」を奏でるのは終結部のみで、序盤では語りとテープパート(アナログ時代のリュック・フェラーリ風に、環境音をストレートに切り取ったもの)の関係性(テキストと音響素材が呼応する)の背景音楽として機能し、中盤は細部を演奏者に任せた「リハーサル」シーンが続く。1フレーズごとに今井が梶原に入りを確認し、テンポが違うのではないかと清水がメトロノームを鳴らし… というような展開は、このメンバーならばいかにもありそう。この間もテープが流れ続けているので白々しさは中和される。踏切の警報音をアンサンブルが模倣し始めると、警報音にピッチシフトがかかり、アンサンブルの連打やロングトーンもそれに追随して上下行する。語りは常に象徴性を保ち、このような直截な音現象の間は沈黙する。語りが最後に「そして、音楽が始まる」と呟いてからが「ライヴ音楽」というわけだが、このような「音楽という記号」は、「映画音楽」のメタファーに他ならない。「語りもの」シリーズ第1作には発想の出発点が明瞭に刻印されている。
後半は初演でも強い印象を与えた2作だが、良くも悪くも演奏によって大きく変わるものだと実感。《伴奏−齟齬》は、細部が微妙に異なるテキストを2回語り、各々をピアノとトモミンで伴奏することで両者の差異を提示するのが基本コンセプト。近代西洋音楽の理念を体現したピアノと、音程すら不安定なトモミン(今回も本番前に電池を入れ替えたら音程が変わり、音合わせに時間がかかった)の齟齬が浮き彫りにされる。初演では楽器を開発した足立智美が担当し、「ピアノの音型を極力模倣しようとするが全く別物になってしまう」という状況を巧く表現していたが、エレクトロニクス演奏に本格的に取り組んだのはSim以降の大谷には、この楽器をそこまでコントロールすることはできず、「両者は全く違う」というアピールに留まった。ただし、ライヴではありがちな事故として、《陥没−分岐》のキーボード用に高音域を極端にカットしたギターアンプの設定がそのままになっており、大谷がリハーサル時に意図していた音は出せなかったという。結果的に、トモミンばかりにスポットが当たった初演とは対照的に、ピアノにも目が向いた。序盤は型通りの端正な伴奏だが、黒人への施しは差別意識の裏返しに過ぎないと息子に指摘されて動揺する白人女性の心理を低音域のクラスター連打で炙り出し、さらにトモミンも加わって不気味に高揚する。繊細な爪弾きから大河のうねりへ連続的に移行するピアノ書法は、河合のソロ即興のスタイルに合わせたかのようだ。ピアノに寄り添い、音程を揺らしながら音圧を上げてゆく大谷のトモミン演奏は、終始異物と割り切った足立のプレイよりも、この場面では魅力的だった。終結部ではソロになり、さらに音圧を上げながら耳障りな超高音域に駆け上がる場面では、再びギターアンプの設定が足枷になってしまったが。
《沈殿−漂着》の初演は本サイトでもレヴューしたが、武満徹《海へ》を思わせるアルトフルートとギターのデュオに、プリミティヴな発振音のエレクトロニクスが音割れや歪みに構わず襲いかかる、というバランスが異様な迫力を醸し出した。だがこの日の解釈では、アルト&バスフルートを用いた梶原の鋭い吹き込みに後期武満の温和なイメージ(これは、ある種の演奏伝統に由来するイメージに過ぎないのかもしれないが)はなく、ハーモニクスを厳しく突き刺す、むしろベイリー的な今井のギターは、音楽をさらに後期武満から遠ざける。今井によると、この編成で普通にやると武満になっちゃうね、なんとか違うように演奏しよう、という合意がふたりの間であったという。初演では、音楽の進行を虚実織り交ぜて実況中継する語りと実際の演奏のせめぎ合いが音楽の大きな要素になったが、佳村の浮遊する語りとふたりの峻厳なアンサンブルは、もはや二項対立を形成しない。そこに強引に割り込んでいたエレクトロニクスも、音割れを嫌う有馬の指向(この日のPAは小規模なスタジオモニター2本以外は会場壁面のアナウンス用モノラルスピーカーで、やはり大音量はきれいに出せない)を反映して抑え気味になった。鈴木が用意した「本来の音響」はわかったが、初演とは別物だ。「音楽」の豊かさは満喫できた反面、このシリーズが意図する多様な関係性の表出には至らなかった。
最後が新作《前兆−微光》。最初3作は毎年書かれたが、その後2作は間隔が空いたのは、このシリーズでは同じコンセプトを繰り返しても意味がない、という強い意志があるからだろう。また、双子座三重奏団のために書かれた《蛇行》(2007)は、歌手が語りを兼ねるためこのシリーズには含まれないが、アンバランスなアンサンブルと自己言及する語りというこのシリーズの特徴を共有しており、再びこのシリーズに取り組む機は熟していたのだろう。基本ストーリーは、美しい指貫を神に見立てた子供の遊びという、従来になくわかりやすいもので、鈴木の語りは一見訥々としているが、「情感」や「味わい」には乏しいが明瞭なので、聴き手の意識を音楽とテキストの関係性に集中させる。「×分××秒後に◯◯は△△を始める」と宣言してその奏者の足下にキッチンタイマーを置くのが、今回の新しい趣向。その結果も多様で、多井はタイマーを止めてから指示通りに半音階の練習を始め(ただし実際は事故でタイマーが鳴らず、気付いた多井がさりげなく自分でセットして鳴らした)、太田もタイマーを止めた後、シューベルトの歌曲という指示通り《エレンの歌 第3番》を歌い始める。だが、大谷に対してはもはやキッチンタイマーは鳴らない。
テキストと演奏の関係性も、従来はテキストのテーマや雰囲気を演奏が描写する伝統的なものだったが、今回は歌手が語りのテキストを歌のテキストとは無関係に引用し、楽器も語りのイントネーションを模倣する。多井と大谷は共同戦線を張ることが多い。Vc.の激しい同音反復コル・レーニョとA.Sax.の重音吹き込みノイズを、音楽を分節したい箇所で繰り返し息を揃えて重ね、J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲第1番を交代で奏する場面もある。大谷が吹き始める直前に「チェロはバッハを弾き始める」というナレーションを挟むような「外し」は、もはやお約束。また本作では、環境音を素材にしたテープパートが、《浸透−浮遊》のようにほぼ全曲に亘って用いられた。ただし今回は強く変調され、歌唱や語りに呼応してカットアップが繰り返される。あえて対比的に言えば、今度はデジタル時代のフェラーリを思わせなくもない。ただし、フェラーリの近作のようなデジタル臭の強い音響は用いられていない。
以上、今回の公演を駆け足で眺めてきたが、最大のポイントはこのシリーズでの語りの位置づけだろう。TEMPUS NOVUM演奏会等における従来の上演では、1公演1作で毎回違うコンセプトだったので比較しようがなかったが、5作を1公演で、3人の語り手が複数の作品を担当する状況が作られたことで、初めて考察が可能になった。カオス的な音楽パートを持つ《陥没−分岐》には、テキストの意味性を浮き彫りにして統合する傾向の強い秋山の語りが、記号的な音素材と語りの融和を目指す《浸透−浮遊》には、テキストの意味性を拡散させ背景に追いやる傾向の強い佳村の語りが、いずれもぴったりはまった。だが、細部が微妙に異なる2種類のテキストに水と油の音楽をつける《伴奏−齟齬》に秋山、語りが詩的な自由連想と音楽への具体的言及(虚偽を含む)の間を揺れ動く《沈殿−漂着》に佳村、という後半の組み合わせは逆だったのではないか。初演の語りの性別(テキストが示唆するジェンダーに合わせた選択)を今回も踏襲した結果だが、このシリーズで探求しているのはより抽象的な次元でのテキストと音楽の対応である以上、テキストのジェンダーと語り手の性別を合わせることよりも、テキストと語り手のキャラクターを合わせる方が重要なのではないか。また、今回のふたりは基本的には音楽家であり、「音楽の中に語りを位置づける」役割に相応しいのは、語りのプロよりも音楽家なのだろう。なお、彼らの間に入っても、鈴木自身による語りは異彩を放っていた。「語りもの」における語りに朗読的な「上手さ」は求められておらず、音楽とテキストの意味性のバランスを調停する感覚こそが重要なのだとよくわかる。
鈴木の「語りもの」シリーズは、現代音楽/実験的ポピュラー音楽/映画音楽といったジャンルの限定を離れても斬新なコンセプトを持った音楽であり、ジャンルを超えて聴衆にアピールする可能性を持っている。今回の客席には、普段は交わることのない音楽家たちのファンが、フリーコンサートという条件も手伝って詰めかけた(「定員」の2倍を超える、過去最多の入場者数だった)。今回共演した音楽家たちの間でも新たな出会いがいくつも起こっていたが、これを一期一会の出来事に終わらせず、ほぼ同一メンバーによる日英2言語による録音が進行しているのも頼もしい(録音を担当する庄司広光のblog参照)。歌唱も含め、テキストは音韻ではなく意味性のために存在しているので、海外への紹介のためには英語版は不可欠である。オリジナルは日本語版だと周知されていれば、海外上演の際は英語版の重訳による各国語版がおのずと作られるだろう。この日の上演を1曲ごとに切り離して初演と比較する立場では、無条件に賞賛することは難しいが、以上の点を視野に入れれば、意義深い公演だったことは疑いない。
ただし、ステージマネージャーに相当する人物がいなかったために転換や進行が滞り、機材絡みの事故も起こったことは、この日の公演の問題点として指摘しておかなければならない。ゲネプロにおける確認事項を再現することに各奏者が集中している現代音楽公演の本番は、その場の状況に各音楽家が集中している即興音楽の本番とは全く状況が異なる。アンサンブルの規模によらず、全体状況を客観的に統括する人物がいなければ公演は円滑に進まない。今回のステージを破綻なく終えられたのは、現代音楽の豊富な現場経験を持つ有馬が、自らの担当の合間に可能な限りステージ進行にも気を配っていたからに他ならない。内山が主宰する制作集団「ホロ響」のサイトでは、鈴木が作曲/編曲を担当すると思しき企画がいくつか予告されているが、そこで今回の経験を生かしてほしい。
(2007年9月16日 茗荷谷・文京区立小石川図書館視聴覚ホール)
(c) 2007 Yoshihiko NONOMURA