山内桂の近況:2007年12月&2008年1月

野々村 禎彦

 本サイトでは 山内桂のライヴを繰り返し取り上げてきた。彼の音楽は地道に進化/深化し、筆者の2006年ベストでも上位の出来事になった。2007年に入っても彼の歩みは止まらず、セカンドアルバム《波照間》をリリースし、Signal to Noiseユニット来日ツアー参加時の音源も相次いでリリースされた。同年11月から12月にかけてはJack Wrightの招きで初の米国ツアーを行い、海外での注目度も高まりつつある。本稿では、2007年12月16日、山内が米国ツアーから成田空港に戻った機会に企画された "(h)ear rings vol. 17" における吉村光弘との共演と、2008年1月13日の "Salmo Rise vol. 2" における入間川正美との共演を取り上げる。

 "(h)ear rings"は吉村が共演者を招いて行ってきた企画であり、彼がヘッドフォン・フィードバックという方法論を確立し、会場を千駄ヶ谷・Loop-Lineに定めてからは、単なる即興音楽家のショウケースを超えて、彼のコンセプトの展開と即興音楽の現在が切り結ぶ、刺激的な場として定着してきた。他方"Salmo Rise"は、即興音楽を中心に、時に辛辣な批評精神を自在に紡ぐ人気blog「やぶいぬ日記」の矢野トシアキが、地元の門前仲町・門仲天井ホールで息長く続けようとしている、山内を中心に据えたライヴ企画。かつては密接な交流があった東京圏と関西圏の即興シーンは、Festival Beyond Innocenceが大阪に移った頃から再び別な道を歩むようになり、山内タイプの音楽の需要は現在ではほぼ東京圏に一極集中している。そのため彼は、自宅のある大分から定期的に上京して自らの音楽を世に問うてきた。この企画を核にしてライヴを組むことで、今後はより柔軟な活動が可能になりそうだ。第1回は山内ソロであり、今回が初の共演者を迎えた公演となる。


 まず、吉村との共演から。吉村はこの企画に山内をたびたび招いており、今回が3回目の共演になる。彼はもちろん山内の音楽を高く評価しており、彼が編集する音楽批評紙「三太」の第6号における山内論では、その音楽の本質は呼吸であり、サウンドは呼吸に付随して生じているにすぎないという極論(しかし、あえて極論を提示して状況を活性化させるのが、批評の本来の役割ではないか?)を展開している。最近の山内の演奏スタイルの変化の一端には、この音楽家論がありそうだ。

 この企画では、前半が各音楽家のソロ、後半が即興セッションという構成が多いが、このような2部構成は近年の山内もライヴで踏襲しており、その際には前半のソロは「作曲作品」の演奏となることが多い。ここでの「作曲」とは、演奏の出発点になるシンプルな旋律やコンセプトのことであり、以後はそれが反復される。ただし機械的な反復ではなく、身体感覚に導かれた自立的な変容を伴っており、その変容が終わった時点が曲の終わりになる。

 1曲目<!>は、ソプラニーノサックスの高次倍音を、鼓膜と共鳴する音高に設定して吹き続けるのがコンセプト。耳栓をして吹くわけではないので、自らの鼓膜でチューンすればリファレンスはいらない。山内は呼吸の自発性を口腔の自動作業に代えてしまう循環呼吸は用いないので、この聴覚への攻撃はノンストップで続くわけではないが、息継ぎの間から持続音に戻る(あるいは、呼吸のゆらぎに伴って持続音が微妙にゆらぐ)様子は毎回異なるため、初期ミニマルミュージックを思わせる豊かな音楽体験が得られる。一見楽々と吹いているにもかかわらず、空間全体の空気が振動している。鳴り始めの強烈な刺激に耳が慣れるにつれて、霧が晴れるように「静寂」が広がって音響の細部に耳が開いてゆく体験は、優れたノイズミュージックで馴染み深いものであり、「音響」の文脈でのノイズとは佇まいが違う。

 2曲目<筑紫>は、極めて単純な上下行音型をソプラニーノで繰り返す。アルバムも含めて何度となく聴いてきたが、ここに至ってこの「旋律」の意味合いが変わってきた。山内は、もはやこの旋律を「歌う」意識は捨てたのではないか。自然な呼吸を繰り返し、それに伴う身体運動の一部に運指を組み込めば、「歌」は身体の内側から自ずと立ち上がってくる。この状態で身体の使い方を変えてゆくと、知的操作を経ずに「変奏」を行うことが可能になる。従来「肉体的」と呼ばれてきた音楽表現こそ情緒の産物であり、真の抽象表現は身体性に徹する中から生まれるのだ。

 最後の<Hi>は、アルトに持ち替えて高次倍音を吹く曲。<!>が曲として独立する以前は、鼓膜との共鳴もこの曲の一部だった。現在ではその部分は切り離され、サックスのリードで出せる倍音列を限界まで上ってゆくプロセスを提示する曲になっている。特にこの日は意図的に息を絞り、かすれた倍音が鳴っては消える、幽玄の境地を聴かせた。これは、高次倍音による耳への攻撃に慣れていない米国の聴衆に配慮した、ツアー用特別ヴァージョンだったのだという。

 前半最後は吉村のソロ。ヘッドフォン・フィードバックという演奏形態に至ってから既に3年が過ぎ、そのスタイルも少なからず変わった。角田俊也が「三太」紙上で指摘した通り、フィードバック音響は発音源のヘッドフォンと集音用マイクロフォンの配置でほぼ決まり、空間に漂う音がフィードバック過程に影響を及ぼすわけではない。音響の変化は、位相がズレる際に過渡現象として高次倍音を多く含む音響が発生することに由来する。この日の演奏では、指向性のあるマイクロフォンを客席側に向けて壁からの反射音を拾い、空調をつけっ放しにして空気の流れを作った。すると位相変化が頻繁に起こり、ヘッドフォンを床に置いたままでも音響は時々刻々変わる。音環境に手を入れてサウンドインスタレーションの音響を積極的にコントロールする、梅田哲也に通じるアプローチである。ソロの後半はヘッドフォンを持って積極的に操作していたが、音響の変化はむしろ手持ちの方が少なかった。

 休憩を挟んでデュオ一本勝負。吉村は今度はマイクロフォンをステージに向け、空調も切って演奏を始めた。ヘッドフォン床置きで吉村が静止している限り、音響は殆ど変化しない。これを受けた山内はアルトサックスの息音から入る。ただし、音響的即興で馴染み深いフラットなホワイトノイズを続けるのではなく、息が管の中を通ってラッパから広がってゆく輪郭が見えるようなプレイ(もちろん、実際の息の流れがトコロテンの型押しのようなものであるはずはなく、これはあくまでイメージだが、吹き込みの不均質さを精妙にコントロールすることで、未聞の音響を引き出している)。しかも、その輪郭は一息ごとに変わるのだ。息音の芯には実音が伴い、その強弱も吹き込みごとに変わる。他方、実音のピッチは終始固定されており、音楽要素がいたずらに拡散することはない。吉村は床に置いたヘッドフォンの上で手を動かし、位相変化を巧みに導く。もはやサウンドインスタレーションではなく、この音響現象を楽器としてコントロールしている。

 吉村がヘッドフォンを手に取ったあたりから、音楽のフェーズが変わった。山内のプレイも、息音から実音にスポットを当てたものになる。フルートのホイッスルトーンに相当する、リードの振動を用いない倍音奏法が特に印象的だ。アナログ発振器のピッチが完全5度跳ぶ時のように、一瞬の過渡現象を介して倍音列がふわりと入れ替わる。このピッチと音色の跳躍が、吉村がイヤーパッドを持つ両手の微妙な動きで引き出される、音響が変わりかけて元に戻ったり、過渡現象の時間が数倍に引き延ばされた変化のプロセスと響き合う。息とアンブシェアないしは手元の、気の遠くなるような微細なコントロールの結果でありながら、聴き手の前に広がる音世界はそのような作為を感じさせず、渓流のせせらぎのような佇まいを持つ。

 吉村のヘッドフォン・フィードバック演奏を、筆者は冷や冷やしながら聴いてきた。元々、Sachiko Mの正弦波発振器や中村としまるのno input mixing boardのように徹底的な制御が可能な「楽器」ではないだけに、繰り返しステージに立つうちに煮詰まってしまうのではないかと。その後2年近くの間に、彼はこの「楽器」をこの日のような精度で操作できるようになった。だが、今度はかつて伊東篤宏オプトロン演奏で陥りかけた、本来は制御が困難なことに意味があったはずの音具を曲芸的にコントロールすることに意味はあるのか? それなら普通の楽器を演奏すればよいのではないか? というアポリアが訪れた。オプトロンは特徴的な音色を持っていたため、進揚一郎のドラムと組んだハードコアユニットOptrumを展開して突破することができたが、ヘッドフォン・フィードバックの音響は抽象的かつ普遍的なだけに、吉村の苦悩は深かった。演奏開始と同時にステージを離れ、共演者の動きがフィードバック音響を変化させる様子を提示する/開演前はBGM代わりにフィードバック音響を流し、演奏開始時に音を切って沈黙を保つ/ヘッドフォンを操作するふりをして過去の録音を流し、最後に入る拍手で事態を認識させる、といった極めてコンセプチュアルなパフォーマンスに2007年の大半が費やされたのも無理はない。その中にはセカンドアルバム《not BGM and so on》としてリリースされた杉本拓とのデュオのように、徹底した無意図性が崇高さをもたらしたライヴもあったわけだが。

 だが、この吉村の彷徨に、この日のライヴは終止符を打ったのではないか。爆音ノイズの果てが沈黙に連なっているように、精妙な操作の果てが無為自然の境地に連なっているのだとしたら、コンセプチュアリズムの隘路もコントロールの陥穽も怖れることはない。Sachiko Mや中村としまると同じく、既存のイメージに囚われない「演奏」が可能な分身とともに前に進むだけでよい。そして、このような啓示を即興音楽では「楽器の中の楽器」であるアルトサックスから導いた山内の音楽性に、あらためて驚嘆しよう。


 次は、入間川との共演。彼のライヴも本サイトでは過去2回取り上げており、静謐さの中に強靭な意志を湛えた音楽性はいかにも山内と相性が良さそうだが、実は今回が初共演。矢野は両者のライヴに足繁く通っており、確信を持っての人選だったのだろうが、ライヴ企画を長期的に続けるために重要な2回目の共演者を、一般的な知名度よりも音楽性第一で決める姿勢は素晴らしい。企画者の熱意は聴衆にも通じるもので、入場者の約半数は予約客で当日キャンセルなしという即興界隈では珍しい現象も、コアな支持者の存在を物語る。しかも、客層もこの界隈の常連とはかなり異なり(この日は裏番組が多く、彼らの多くはそちらに流れたのだろう)、近隣住民の関心も高まっているようだ。この会場は、クラシックや現代音楽の世界では、客を選ぶ企画をサロン的な雰囲気で行う際に適した場として以前から使われてきたが、即興音楽公演が行われるようになったのは2006年に入ってから、定着したのは黒田京子が主催する「くりくら音楽会」のレギュラー化以降である。

 この日もまずふたりのソロから、最初は山内。今回もソプラニーノのための作曲作品から入り、1曲目は<祝子(ほうり)>。宮崎県の地名から取った、<筑紫>以上に悠然とした旋律が繰り返される。天井の高さも奥行きもLoop-Lineの数倍になる会場でも、山内の音は空気を隅々まで震わせる。呼吸は一定に保って吹き込み方のみを変え、「変奏」を行うのは<筑紫>同様の流儀だが、この日のコンセプトはより大胆。「変奏」のたびに実音が息音に置き換えられてゆき、実音の旋律が完全に消えたところで終曲を迎える。元の旋律が素朴だからこそ、実験的なコンセプトが際立つ。続けて<!>で聴衆の鼓膜を震わせるが、この曲でも会場の広さは関係ない。

 次はアルトに持ち替えて、まずは即興。12月のライヴのハイライトだった、息の輪郭を描く奏法を抜き出して提示した。この奏法は単独でも十分面白いこと、狭い会場限定の奏法ではないことなどが確認されたが、作曲作品の中にこれを入れたのは、初共演の入間川に一通りの手の内を見せるためだったのかもしれない。最後は「お待ちかねの……」というMCに続いて<Hi>。今回は普段通り手加減しないヴァージョンだったが、終盤に息を絞ったのはより高次の倍音列まで上ろうとしたためのようで、普段よりひとつ上まで辿り着いたところでスパッと終了。

 続いて入間川のソロ即興。彼はチェロソロを専ら高田馬場・プロト・シアターで行ってきたが、昨年末から湯島の会議室のようなスペースでもライヴ企画を始めた。ソロ即興の語法が揃ったので、会場による音響の差異に由来する演奏の変化を探究する段階に移ったのだろうか。初めての会場なので、まずダイナミックレンジをいっぱいに使って音響を探る。到底聴こえない音から音楽の流れとは異質な大きな音まで、5分弱の試運転を経てギアを切り換えた。ホールの残響をまとって音に芯が通るぎりぎりの音量での細かい動きで耳を引きつけてから、徐々に音量を上げてゆく。ハーモニクスにトレモロをかけ、実音との行き来で音が震える状況を聴かせるのが最初のクライマックス。その流れをわざと断ち切るようなギアチェンジをしばしば行い、コントロールを離れた音も挿入する音楽性は変わらないが、音楽の自発的な流れというよりは、本サイトでもレビューした2006年のソロのダイジェスト版を思わせる展開は、20分という彼にとっては限られた時間の中で、山内に手の内を一通り見せようとしたのかもしれない。このあたりの配慮も似通っている。

 後半のデュオ即興は、山内がリードし入間川が合わせる、山内の即興ライヴでは珍しい展開。山内がメインの企画なので、音楽性を共有する入間川が譲ったということかもしれない。ただし、山内が使う音域はアルトサックスでも高音側に偏っているので、一歩引いてもチェロの存在感が弱まることはない。入間川の音量が山内を上回るのは、時折意図的に音響のコントロールを放棄した時くらいだが、山内の音で満たされた空間に鋭い音色でマーキングを施してゆく作業に音量はいらない。このライヴの前日、山内は大友良英と吉祥寺・GRID605でデュオ即興を行ったが、しばしば挑発するかのようにエレキギターの音量を上げる大友に対し、音域と音色の違いを計算して飄々と渡り合っていた。その翌日には、今度は山内が音量で挑発する側に回るのだから面白い。

 演奏が半ばを過ぎると、山内は息音中心のプレイに移行し、入間川に主役を譲ろうとする。だが入間川もピチカートに移行し、音量ではさらに一歩引く。しかし、弓弾きで細かい動きを敷き詰めてゆくプレイから音の隙間を生かしたプレイに移行したことで、孤立した音どうしが「旋律」を形成し、仄かな抒情が滲み出てきた。山内が息音に実音を混ぜて一歩前に出ると、入間川もピチカートに弓弾きを重ねて返す。手持ちの語法の範囲で脊髄反射的なコール&レスポンスを繰り返す因襲的な即興に可能性はないが、ヨーロッパ自由即興音楽本来の理念である、我が道を行く線と線が偶然の出会いを繰り返す状況がすべてではない。常套的な反応を避けながら、互いに相手の音に導かれて未知の領域に踏み込んでゆく。終盤の極小音によるデュオは、音を飛び越えて空間の伸び縮みが直接感じられるような、彼らにとっても聴衆にとってもかつてない体験になった。

 最後は、山内のソプラニーノソロ作品<Salmo>をふたりで。この曲はリハーサルでも全く練習していません、というMCを終えるや否や、入間川の準備を待たずに山内は吹き始める。反復されるフレーズ自体は単純なので、入間川もすかさず、弓の木部で数倍に引き伸ばされたテンポで追いかける。入間川は反復ごとにパラフレーズを行うが、山内はさらに大胆。呼吸の周期とフレーズの周期、上下行の方向性さえ合っていれば個々の音はズレようが入れ替わろうが関係ないと割り切って、もはやフレーズとして認識できなくなるところまで加速してゆく。完成度としては山内らしからぬ試みとも言えるが、アンコール代わりの趣向として楽しめた。


 プロの音楽家として歩み始めた頃の山内は、共演者が誰であろうと自らの道を歩む音楽家だった。しかし現在の彼は、共演者の音楽性を100%、時にはそれ以上引き出せる音楽家になった。このような音楽性の変化は灰野敬二を思い出させるが、灰野が数十年を経て辿り着いた境地に山内は数年で達しつつある(とは言っても、アマチュア時代を加算すれば音楽歴は彼も同じくらい長いが)。近年の灰野は打楽器演奏に留まらず、ギターや声の表現でもアンプラグド志向を強めているので、このふたりの共演も今後十分有り得るのではないだろうか。

(c) 2008 Yoshihiko NONOMURA

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