横島浩新作個展 produced by 時の形レコード |
野々村 禎彦 |
音楽之友社が『音楽芸術』誌を刊行し、現代音楽の演奏会評に誌面の多くを割いていた時期には、そこに取り上げられることが現代音楽企画の目標のひとつだった。業界内での認知にも助成金の申請にも大きな意味を持っていたからだ。誌面で高評されるためには内容が大切だが、それ以前に取り上げられるためには、「公共性」が認められる一定以上の規模の会場でそれなりの数の聴衆を集める必要があった。動員で会場を埋める場合、有料入場者は聴衆のごく一部なので、会場使用料・演奏家の出演料・練習場使用料等の経費の大半は、助成金を得られない限りは企画者の持ち出しになる。これでは企画は頻繁には行えない。
この状況は『音楽芸術』誌休刊以降徐々に変化した。身の丈を超えた規模の現代音楽企画を行う意味が薄れ、個人でも運営可能な規模の企画を長期的に続けようとする機運が高まってきた。使用料を入場料でまかなえる会場を用い、出演料よりも演奏機会を重視する若手実力演奏家を起用し、演奏者が自宅でも練習できる規模の編成に絞る。もちろんこれだけでは限界があるが、妥協のない企画を積み重ねた実績に基づいて助成金を得た上で、大規模な企画を行えばよい。
この方向性での会場の選び方には2種類ある。ひとつは交通の便の良い小規模の会場を用いること。現代音楽企画を自腹で聴きに来る層は元々限られており、音環境は多少犠牲にしても「濃い客」が集まりやすいことを優先する。このコンセプトの極北にあるのが、渋谷ステュディオでの「東京私的演奏協会」の枠内で木下正道が担当している現代音楽企画だろう。もうひとつが、交通の便は度外視して音環境が良く使用料も安い会場を探すこと。本サイトでもフェルドマンの弦楽四重奏曲第2番の全曲演奏会を取り上げた、多井智紀による千葉市美術館さや堂ホールでの企画がその典型。「本当に濃い客」は良い企画ならどこでも聴きに行く。
とは言っても、音環境のために「濃い客」の大半を切り捨てるのでは割に合わない。音環境を生かして演奏会をライヴ録音し、音源をディスクやダウンロード販売という形で配給し、演奏会に足を運ぶのは躊躇する人々に届けることで、この選択にも意味が出てくる。多井がアンサンブル・ボワを主宰している星谷丈生と共同で「時の形レコード」を始めた背景には、このような事情があったのだろう。
前置きが長くなったが、今回取り上げる横島浩新作個展(全曲初演)は、星谷の大作で立ち上げ公演を行って以来の時の形レコードの企画であり、団体の今後を占う意味でも重要な演奏会だった。セットリストは以下の通り(動画リンクあり):
横島の作曲技法のひとつとして、音楽とは直接関係ないが、何らかの時間構造を含む素材を音符に置き換える「作曲」がある。今回の曲目では《目覚め》と《私のたくさん…》が、太宰治の小説『女生徒』のテキストに基づいて生成された。《目覚め》ではテキストの各音が、50音のいずれにあたるかで和音の基音、さらに5つの母音のいずれにあたるかで属9の和音5種類を決め、5挺のヴァイリンが一定間隔で奏する。句読点はカウベルとシンバルによる分節、撥音や濁音がグリッサンド等の特殊イヴェントに対応し、その中にはヴァイオリンの重音(和音に11度を付加)も含まれる。《私のたくさん…》ではピアノと打楽器が同一のテキストを異なった規則で、ただし時間軸は常に同期させて変換してゆく。
2曲が同一テキストに基づいていると聴いてわかるようなものではないが、《目覚め》の5挺のヴァイオリンは常にひとつの和音を奏し続けるため、実質的には打楽器との「デュオ」である。打楽器は均質な等拍の和音列を絶ち切る異物であり、変換後もまさに「句読点」として機能している。《私のたくさん…》のピアノパートはセリー音楽風の峻厳さ、ウッドブロック中心の打楽器パートは肩の力の抜けたコミカルさを持ち、互いの存在を異化しあう。《目覚め》の打楽器パート自体は単純で、音色が不安定な方が異化効果は高いので、専門の奏者ではない多井があえて担当したのだろう(むしろ、ヴァイオリン5挺の同期や表情付けを担う指揮者としての役割の方が大きい)。他方、《私のたくさん…》の生命感は、打楽器の畑中に多くを負っている。
横島が用いるシステムはさまざま。《天職》では2台ハープを四分音調律し、各楽器の12音列を交互に並べた24音列によるセリー音楽。これだけならば二十絃箏のデュオでも良さそうだが、音楽が進むにつれて高音域のアルペジオが差し込まれる割合が増え、2台ハープでなければ不可能な跳躍が頻出するようになる。さらにサティ《『星たちへの息子』への3つの前奏曲」》の断片の割合が順次増えて、セリー音楽部分とアルペジオの間の音域も埋まり、演奏はますます困難になる。このような興味深い成り行きが「自動」生成されるようなシステムを考案することが、横島の「作曲」に他ならない。
《EdnaMellA》は、J.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲第6番》〈Allemande〉 の完全逆行で始まる。J.S.バッハの無伴奏作品は、単旋律に見える線の中に潜在ポリフォニーが埋め込まれているところが妙味で、これをいかに聴かせるかが演奏者の腕の見せどころだが、逆行すると和声が進行しなくなるのでこの前提は崩れてしまう。その後、徐々に順行が加わってゆく構成の解釈は、演奏者に委ねられている。この日の多井は会場の豊かな響きに任せ、ことさらに潜在ポリフォニーを拾おうとはしなかった。これはこれでひとつの解釈。ヴィオラ・ダ・ガンバを用いたこととは、特に関係ないだろう。「逆行した時、最も気持ち悪い曲は何か」がこの曲の出発点だというが、《天職》でのサティ作品の引用と同じく、古今のクラシック音楽レパートリーを隅々まで熟知し、創作にも使えるのが横島の強みだ。
最後の《蛍》も、荻原井泉水の自由律俳句と、それと対比して自由律の優位性を示すために詠まれた定型俳句をテキストに、両者の言葉を入れ替えつつあるシステムで変換して譜面を生成したもの。少々奇妙な編成は、ピアノの音域をカヴァーするアンサンブルをもう一組用意するのが狙いで、音色を考慮して楽器を選んだわけではないという。バラバラに配置された6楽器が1節ずつ代わる代わる、時折2楽器が重なる「合奏」では音色の対比や配分が強く意識されることはないが、楽想と編成が密接に結びついていた他作品と比べると、やや散漫な「いかにも実験音楽的な実験音楽」という印象が否めない。即興音楽の自由なアンサンブルで上手くゆくのは高々4人まで、それ以上は厳しい制限が必要と言われる所以は、コミュニケーションの問題(よりドライには、声部数の問題)として論じられることが多いが、本作ですら問題の根本は同じだとすると、実は音色数の問題なのかもしれない。
横島のコンセプトの広がりを一望にできる良い演奏会だった。少なくとも、動画がアップされている演奏は作曲者も納得できるものだったのだろう。多井は《二局》(2004, 将棋の棋譜を2種類の方法で楽譜に変換した作品) の演奏を通じて横島と知り合い、彼の薫陶を受けて古楽・クラシックのレパートリーを広げ、《EdnaMellA》と室内楽作品の委嘱を通じてこの演奏会に至ったのだとという。近年の若い世代の現代音楽企画の特徴として、かつての作曲家主導ではなく、演奏家主導に移りつつある(先述の木下正道の企画も、作曲家としてというよりはエレクトロニクス奏者としての関心に由来するものが多い)ことが挙げられるが、それがこのような成果に結実するのであれば、今後がますます楽しみだ。
(2011年12月18日 千葉市美術館さや堂ホール)
(c) 2012 Yoshihiko NONOMURA