湯浅譲二:葵の上、マイ・ブルー・スカイ第1番 (edition omega point, OPA-001) |
野々村 禎彦 |
湯浅譲二が、戦後日本の生んだ最も優れた作曲家のひとりであることは疑いない。彼の創作は多岐にわたる(最近《美しいこどものうた》(Musicscape, MSCD-0013)としてまとめられた童謡に見られる、メロディ・メーカーとしての才能も忘れてはいけない)が、最も重要かつ他の創作の基盤にもなっているのが電子音楽の制作であることは、湯浅自身も認めている。なかでもホワイトノイズに基づくアナログテープ音楽は戦後前衛の最高の達成のひとつであり、《イコン》《ヴォイセス・カミング》《スペース・プロジェクションのための音楽》はいちはやくCD化された。その予告編にあたる《プロジェクション・エセムプラスティック》とコンピュータ化以降の《夜半日頭に向かいて》《白の研究》《世阿彌・九位》《始源への眼差》も、海外で順次CD化された。今回取り上げるのは、これまで復刻されていなかった2曲の電子音楽の初CD化である。
《葵の上》(1961)は、能『葵上』の謡曲を素材にしたミュジック・コンクレート。草月アートセンターから、能舞の背景に流されることを前提に委嘱され、謡曲のテキストはそのままの順序で全部用い、電子的加工と若干の具体音や電子音の挿入を行ったものである。観世寿夫、榮夫、英夫兄弟が制作に積極的に協力し、この作品のために新たに作曲された謡曲もあるという。純粋に音楽的に聴くと、声の素材があまりに生の形で使われ、具体音や電子音の選択もテキストの意味性に引きずられすぎているという印象は否めない。同じ年に、同じく声を素材に作られたベリオ《顔》と比べると明らかに物足りないし、完成度も、諸井誠が同時期にNHK電子音楽スタジオで制作した《ヴァリエテ》には及ばない。当時は在野の無名の作曲家だった湯浅が制作に使えたのは、草月アートセンター業務終了後の深夜の時間帯だけだったことと無関係ではないだろう。
だが、自筆ライナーノートで言及されている通り、本作にも音響技術者・奥山重之助の密接な協力(奥山は武満徹の初期ミュジック・コンクレート制作にも協力している)があり、本作の限界は湯浅の資質によるものと考えるべきだろう。武満の真骨頂はイメージと音楽の微妙な関係を調整するバランス感覚にあり、具体音の意味性と音響性の綱渡りが要求されるミュジック・コンクレートにおいてその才能は発揮された。武満のこの資質は、映像の意味性と音楽を調停する映画音楽の分野においても大きな稔りを生んだ。他方湯浅は、強い意味性が存在するとそこに音楽を従属させてしまう傾向がある。彼の才能は、ホワイトノイズという抽象的な素材を切り出して意味性を生み出す作業の中で見出された。その資質は、断片的なテキストと音楽の化学反応から濃密な意味を作り出す、実験的なラジオドラマ(寺山修司との《コメット・イケヤ》が名高い)という場でも発揮されることになる。
ただし、湯浅の創作史にこの作品が占める位置は、さまざまな点で興味深い。まず、冒頭の変調された声をもう一度変調したものが、《スペース・プロジェクションのための音楽》前半のクライマックスで重要な役割を果たしている素材に他ならない。彼のプリコラージュ志向は、付帯音楽や機会音楽ではしばしば顕著だが、《スペース・プロジェクションのための音楽》も、大阪万博・せんい館で上映された松本俊夫のインターメディア作品『スペース・プロジェクション・アコ』のための音楽である。後半のクライマックスを作る徐々に加速するホワイトノイズも、《ヴォイセス・カミング》第3曲の終結部にそのまま現れる。もちろん、そのスタンスと作品の質は関係ない。前期Ground-Zero時代の大友良英作品を特徴付ける少数の素材の使い回しが、作品の価値を減じてはいないように。また、謡曲のコラージュで生じる音響には、《芭蕉の俳句によるプロジェクション》を予告する瞬間が散見され、謡曲の唱法を全面的に導入したこの合唱曲は、ポストモダンの時代を見据えた意識的な方向転換と言うよりは、《プロジェクション・エセムプラスティック》に始まる抽象志向に《クロノプラスティク第1番》で区切りをつけ、自己の原点に戻って生まれたことを物語る。
カップリング曲の《マイ・ブルー・スカイ第1番》(1975)も、湯浅の電子音楽創作史では特異な存在である。最後のアナログテープ音楽であるこの作品においてのみ、彼はそれまで忌避してきた単純な発振音(クリックとパルス音)を用いた。彼は自筆ライナーノートで、この作品の狙いはさまざまな周期の短い発振音の干渉によって生じる連続音の多様な相貌であって元々の素材ではない、と主張しているが、それは彼が批判する初期電子音楽でも変わらない。むしろ、初期電子音楽で探求されなかったのは、非周期的な正弦波発振音それ自体を意図的に聴かせる、Sachiko Mのような音楽である。本作は、彼の伝統的な楽器のための創作が電子音楽にフィードバックされた稀有な例とみなせよう。無機質なクリック音がエコーをまとったパルスに覆われ、高速でオンオフするパルスのグリッサンドが介入してくる導入部は、弦を叩くノイズが行きつ戻りつする管の密集音型に交代し、そこに弦の骨太なグリッサンドが侵入してくる、管弦楽曲の一場面を思わせる。均質かつ点描的なパルスをセリエルに散らしてヴェーベルン的な抒情を漂わせる終結部も、彼の室内楽や器楽曲では見慣れた風景だ。
謎めいた深遠さを比較的容易に作り出せるホワイトノイズをベースにした電子音楽と比べると、発振音をベースにした電子音楽は、精緻に作り込めば作り込むほどポップに聴こえてしまう面がある。シュトックハウゼンの音楽を思い出せば明らかだろう。初期電子音楽に携わっていた作曲家の多くが60年代に入るとそこから離れたのは、このあたりの事情が大きいのではないだろうか。一方湯浅は、まずホワイトノイズベースの電子音楽を極め、その成果を伝統的な編成による作品に一通り還元した上で、この作品に取り組んだ。結果はやはりポップな音楽になり、この傾向はスタジオの技術的制約によるものではないことを伝える。だが、このポップさはむしろ、因習的な芸術観に囚われない精神の自由さの象徴と捉えるべきだろう。70年代後半から80年代前半にかけての、見かけは親しみやすいがコズミックな広がりを持った作品群の出発点は、実は本作だった。
なお本ディスクは、テープ音楽を中心とするサウンド志向の(「ノイズ」でも「音響派」でも括れない、サウンドインスタレーションや音響詩も含む)ディスクを専門的に扱っているomega pointの自主レーベルから、Archive Series第1弾としてリリースされた。Ina-GRMレーベルはもちろん、edition RZレーベルやedition Wandelweiserレーベルを日本でいち早く扱ってきたこのショップは、現代音楽ファンの間でも知る人ぞ知る存在だったが、アカデミックな「現代音楽」や「電子音楽」の外側にあることは言うまでもない。正当な評価に基づいたテープ音楽の復刻が近年は現代音楽界の外側で行われていることは、フェラーリやオリヴェロスのディスクがどのようなレーベルからリリースされているかを見れば明らかだが、ようやく日本でも動きが始まった。今後の展開に期待したい。
(c) 2004 Yoshihiko NONOMURA