木ノ脇道元:blower / 不在の花 (Zipang Products, ZIP-004/010)

野々村 禎彦

 1969年生まれの木ノ脇道元は、現代フルート作品の演奏では既に日本で右に出る者がない存在である。ソロ活動に加えてアンサンブル・ノマドアンサンブル・コンテンポラリーαのメンバーとしても活躍している。セカンドアルバム「不在の花」が発売された機会に、ファーストアルバム「blower」と合わせて振り返ってみたい。

 結論から言うと、「blower」はかなり微妙なアルバムだった。冒頭はピアソラ《タンゴの歴史》(G.:佐藤紀雄)だが、リズムは四角四面で頼りなく旋律線も寸断された、「クラシック奏者が譜面だけ見て演奏したピアソラ」になってしまった。ファブリチアーニですら似たような水準の演奏を並べたピアソラアルバム(Phoenix, PH 97319) をリリースしており、そのこと自体を云々するのは野暮かもしれないが、ファーストアルバムの1曲目の選択はより慎重であるべきだろう。彼の持ち味は、ファーニホウ《ユニティ・カプセル》で聴かせるような技巧の切れと特殊奏法のコントロールにあるのだから。その意味でも、このアルバムで最も聴き応えがあったのは福井とも子《A Color Song on B》(1994)だった。B音のカラートリル(同一音高の替え指トリル:音色や音程の微妙な変化が聴きもの)の間にさまざまな特殊奏法や素早いパッセージが挟まれていく。福井が秋吉台国際作曲賞を受賞した出世作であり、木ノ脇との共同作業による《Color Song》シリーズの出発点にもなった。

 J.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲第1番》プレリュードのコントラバスフルートによる録音も含まれているが、息継ぎだけが耳につく無愛想な音楽に聴こえてしまうのは、彼の音楽性や楽器選択ばかりのせいではない。録音会場の代官山クラシックスは、狭いライヴハウスだがグランドピアノを中心に音作りしていたため、ステージをコンクリートブロックで覆って極力残響を抑えており、管楽器や弦楽器の生音には厳しい環境だった。このライヴハウスを運営する音楽プロダクションのレーベルからのリリースであり、会場の選択の余地はなかったのだろうが、それならば音環境に合った曲目を選ぶべきだ。同曲集をテナーサックスで全曲録音した清水靖晃が、専ら洞窟のような残響の強い場所を選んでいたことを思い出そう。複数の弦を持つ楽器のために書かれた潜在ポリフォニーを管楽器1本で表現するには、最低限の残響は不可欠である。この問題点は、剥き出しの単音を無骨に連ねた甲斐説宗《フルートソロのための音楽》では、より深刻な形で表面化した。木ノ脇は《フルートとピアノのための音楽》もしばしば演奏会で取り上げているだけに、この無神経さは残念だ。

 その他の収録曲は、米倉香織《アリオーソ》、中川統雄《ダークマター》、一柳慧《忘れ得ぬ記憶の中に》。これらの間に、<blower>と題された、このアルバムの音源を素材に木ノ脇がDTMソフトで加工した小品が4曲挟まれる。単体で評価できるほどのものではないが、バッハ作品の最終音にエフェクトをかけ、そのまま<blower>に移行したり、福井作品やピアソラ作品の前奏曲としてその断片が見え隠れする曲を置いたりと、アルバム全体の中での役割を考えて作られている。これらの小品が「意外と評判が良かった」のがセカンドアルバム制作の契機になったというが、「アルバムの中ではまだましだった」という遠回しな批判も多分に含まれていたと思った方がよいのではなかろうか。

 セカンドアルバムに移ろう。このような経緯で生まれたアルバムだけに、<blower>シリーズの比重が高まり、このシリーズも同世代の作曲家に委嘱している。それ以外の曲目でも表に出る形で音響の加工や変形が行われており、直接録音した生音を含むのは、共演者名がクレジットされている曲のみ。これが「不在」というタイトルの由来だ。「花」の方は、前作のタイトルにふさわしい邦訳は「花゛」であって「吹奏者」ではないということ。とは言っても、前作では息音系の奏法が大きな役割を果たしていたことも確かだが。まずは曲目リストから:

 こちらも結論を先に言うと、前作の問題点をクリアしたなかなかの出来である。木ノ脇作品は、周波数の近い持続音を重ねたうなりに焦点を絞った小品。正弦波発振音に近いフルートの音色が生かされ、2分以内で切り上げた判断も適切だ。その終盤にフェードインしてくるファンクビートで、向山作品は始まる。木ノ脇と向山の録音をベースにしたトラックにふたりのセッションが重ねられる緩い構成だが、決められたテーマに基づく装飾的な即興を木ノ脇は活動初期から得意にしており、「blower」では省みられなかった美質にスポットが当てられた。《所沢ブルース》では、フルートの息音、列車の通過する音、シューベルト《<しぼめる花>の主題による変奏曲》の断片、ブルースの断片などの素材が夢の中の出来事のように通り過ぎるが、全編を覆う深いリヴァーブは、ファーストアルバムに足りなかったものを米倉が意識的に補ったかのようだ。《白鳥の湖》の木ノ脇による編曲は、フルートが清楚に吹き続ける旋律(不穏な電子音が時折見え隠れするが)に「不良っぽい」バリトンサックスが闖入し、フリーブロウのカオスで終わる「いかにも」な構成だが、前後をVairocanaのテクノトラックに挟まれたアルバムの折り返し点に、ぴったりとはまった。《東京アリア》の、素材の新鮮さは放棄して木ノ脇のフルートの音をゆったりした空間に響かせることに的を絞った曲想(実際、コンテンポラリーαの木ノ脇ソロをフィーチャーした演奏会のために作曲された)も、アルバムの締めくくりにふさわしい。

 ただし、アルバムの中でのこれらの作品の位置はオードブル、グラニテ、デザートにあたり、肝心のメインディッシュの味わいは依然微妙なため、「なかなか」以上の評価は難しい。木ノ脇が編集したライヒ作品(1982)では、同一パターンを同一素材の切り貼りで処理するのみならず、類似パターンもピッチシフトで生成してアタックを極力揃えているが、初期テープループ物のような干渉パターンを狙っていたのであれば、この処理はフェイズ物で行うべきだった。《Variations》(1980)以降の作品では、微妙なズレの堆積によって生じるオーケストラ的な厚みが音楽の本質になっており、今回の試みは楽想と構成の空虚さばかりを浮かび上がらせてしまう。つるみ(彼女は「シリアス」な作品では「鶴見幸代」であり、この表記は変名ユニットとみなすべきだろう)作品は、木ノ脇が提供した原素材(曲中に掛け合いの形で一瞬現れる素直な旋律)を不安定な重音を多用して書き直し、その録音をさらにローファイ加工したもの。それなりに興味深いが、ローファイブームの時代にしばしば見られた、経験豊かな奏者がわざと拙く演奏した音楽の厭らしさを反復してしまったことは否めない。さらに一捻りして、木ノ脇が未経験の楽器のために書くような工夫が必要だったのではないか。Vairocana(中川統雄のソロユニット)の2作品はさらに問題だ。《道元コロス》は、すべての音響を木ノ脇が提供した素材を徹底的に加工して作っていることがセールスポイントだが、その点以外は月並みなテクノにすぎない。《天禅日…》に至ってはフルートの素材は申し訳程度で、凡庸な打ち込み/サンプリングパターンを意図的に並べて「商業主義的」という批判を誘うことで、逆説的に存在感を主張しようとしているとしか思えない。

 「現代音楽らしからぬ」方向性は近年の現代音楽界の流行のひとつであり、このアルバムの収録作品は多かれ少なかれこの傾向を反映している(80年代以降のライヒの展開はその端緒のひとつだ)。ヨーロッパ前衛の流れを汲む作品の初演を数多く行ってきた木ノ脇がその限界に気付いた時、このアルバムのような選曲に向かうことは理解できる。だが、「らしからぬ」存在は常に「因習的な中心」の存在を前提にしており、そのネガ以上には成り得ない。「現代音楽」の伝統の中心で活動した(ただし、「近代ヨーロッパ芸術音楽」の伝統の中心にはいなかった)ケージクセナキスフェルドマンシュトックハウゼンらの作品は、「現代音楽」の世界のはるか外側にまで大きな影響を与えた。木ノ脇が目指していたのは、このような創造の過程に貢献することであり、「業界」内部の差異のゲームに与することではなかったはずだ。

 現代音楽リリースの平均的な水準と比較して「なかなかの出来」と書いたのとは裏腹な言葉が並んだのは、木ノ脇への期待の大きさゆえである。ヨーロッパ現代音楽界で若手フルート奏者のホープとして活躍するマリオ・カローリをあらゆる面で凌ぐ彼の能力は、それに見合った音楽的な出会いを求めており、自らの音楽性を録音を通じてアピールするための戦略を考えることが肝要だ。そのプレゼンテーションとして適切なのは、彼との密接な共同作業から生まれた、川島素晴福井とも子のソロ作品集だろう。ヨーロッパ前衛の伝統に属する彼らの作品を演奏することは、現在の木ノ脇にとってはもはや過去の出来事なのかもしれないが、彼の実力を世界にアピールするためには、依然最高のコンテンツのはずだ。録音時点のレパートリーを漫然と並べた結果、むしろ弱点を浮かび上がらせてしまったファーストアルバム。企画者として明確なコンセプトは打ち出したが、彼自身が演奏する必然性は希薄だったセカンドアルバム。次回作に「三度目の正直」を期待したい。

(c) 2004 Yoshihiko NONOMURA
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