Xenakis: Anastenaria (col legno, WWE 1CD 20086), Kraanerg (col legno, WWE 1CD 20217)

野々村 禎彦

 本稿では、col legnoが今年に入ってからリリースした、クセナキスの2枚のCDを取り上げる。このレーベルは、ドナウエッシンゲン現代音楽祭のライヴ録音など、ドイツの伝統的な音楽観に沿った現代作品をリリースの中心に据えてきたが、近年のクセナキス評価の高まりは、このようなレーベルにとっても無視できなくなったようだ。初期の大作《Anastenaria》3部作の世界初録音を含むディスクは、CD化を前提にプロデュースされたMusica Viva音楽祭のライヴ録音で、この音楽祭のレジデント・オーケストラ、バイエルン放響による演奏。《Kraanerg》は、既に2枚のCD録音(ウッドワード/アルファ・ケンタウリ・アンサンブル(ETCETERA, KTC 1075)、ボーンスタイン/ST-Xアンサンブル(asphodel, 0975))が存在する作品にもかかわらず、昨今では珍しい大編成アンサンブルのスタジオ録音が行われた。いずれも「本気」を感じさせるリリースだ。

 まず、《Anastenaria》3部作は、<澄んだ水への行列>(1952-53)、<生贄>(1953)、<メタスタシス>(1953-54)の3曲からなり、《春の祭典》を思わせる異教の儀式を想定したプログラムを持つ。彼の作風がギリシア民族主義から前衛の最先端へと激変した時期だけに、各曲のスタイルは大きく異なっている。指揮は、「クセナキス作品しか演奏しない」ことが売り物のST-Xアンサンブルを米国で結成し、modeレーベルを中心に録音を残しているボーンスタイン、第1曲の合唱はC.Adt/バイエルン放送合唱団。第3曲は第2次世界大戦後のオーケストラ曲では最も知名度が高いものののひとつだが、録音は1965年のル・ルー/フランス国立放送管盤 (Le Chant du monde, LDC 278368)以来となる。

 《6つのギリシア民謡集》(1949-50)、《Zyia》(1952)など、民族主義的な初期作品は最晩年にようやく聴けるようになったが、この第1曲は文字通り、これらの作品と<メタスタシス>以降の大編成前衛作品のミッシングリンクだった。冒頭、東方聖歌を思わせる男声合唱に皮質打楽器が緩やかに絡むあたりは、彼の60年代以降の作品で聴き慣れた風景。そこに混声合唱を伴うギリシア風の素朴なオスティナートが闖入し、作風は一気に新古典主義時代(というか、明快な旋律を持たないオルフ作品というか)に遡る。2群の合唱に同属楽器群ごとに分割されたオーケストラが重ね合わされるが、、それらの間に対位法的な関係があるわけではなく、声部は無造作に堆積される。アイヴズのカオティックなオーケストラ作品を連想させる要素もなくはないが、重ね合わされる声部どうしは比較的似通っており、旋律線が音の海に浮かんでは消える巧みな構成も、意表を衝いた音色の組み合わせも見られない。「聖水を飲み、浴びるための行列に、人々が歌いながら加わっていく」というプログラムを忠実に描写した音楽である。

 第2曲は一転して、オーケストラのみによるスタティックな音楽。前作とは対照的な調性感の希薄さは、この頃メシアンのゼミに参加し、セリー音楽を学んだ影響だろう。とは言っても、個々の音楽要素をセリーで管理しつつ、精緻な対位法の織物を編み上げる、というヨーロッパ前衛的なセリー音楽からは遠い。楽器ごとに特定の持続音(あるいはオスティナート・パターン)を割り当て、音高が偏り過ぎないように調整した、という程度である。メシアンが<音価と強度のモード>で用いた書法を、オーケストラに直截に移したようだ。「神に生贄を捧げる儀式前夜の緊張を孕んだ静けさ」というプログラムには合致しているが、やはりこの種の書法はクセナキスには合っていない、というのが正直なところ。

 そして第3曲。最晩年まで、作品表のトップを飾っていた作品である。この作品の構想が「先に進みすぎた」ため、3部作の当初の計画は放棄され、これ以前の作品は破棄したことにして彼は「超・前衛作曲家」としてデビューしたが(Matossianのクセナキス伝にあるように、3部作の譜面をシェルヘンに見せたところ、最初の2曲ではけんもほろろだった態度が第3曲を見たとたんに変わった、という経緯も大きいのだろうが)、このような形で続けて聴いてみると、先行する2曲の要素は多く残っており、プログラムは放棄されていても、3部作として演奏することには意味がある。導入部と終結部の、弦楽器群を細分化して各奏者に独立なグリッサンドを割り振り、集団の軌跡を図形楽譜でデザインする書法(線材を組み合わせて曲面を作る建築技法を、そのまま音楽に移したもの)はやはりユニークで、シェルヘンが驚嘆したのも頷けるが、それを支える打楽器のパルスは第1曲に由来し、それに続く同音反復の強奏は第2曲に由来する。中間部も、前のめりに突き進むノリの起源は第1曲、無調的な旋律断片の起源は第2曲にある。

 ロスバウト南西ドイツ放響による初演のライヴ録音(col legno, WWE 1CD 20504)や先述のル・ルーの録音の、異星人の謎に満ちた音楽をなんとか音にしました、という世界とはおよそ異次元の落ち着いた解釈は、初演から50年近くが過ぎ、この作品もクラシック音楽の歴史に組み入れられつつあるのだと思わせる。ただし、ST-Xアンサンブルの録音でも感じられたことだが、ボーンスタインのクセナキス解釈は、奏者を限界まで追い込む音楽の角を必要以上に丸めてしまう傾向がある。この録音は、この作品の終着点ではなく、新たな出発点と位置付けるべきだろう。

 カップリング1曲目は、ルンデルが振った《Troorkh》(1991)。Tb.ソロのための《Keren》(1986)の続編にあたる協奏曲である。Tb.のハイポジションの緩やかな線と、よりアグレッシヴで動きも速いオーケストラが呼び交わし続けるスタイルなので、ヴィルトゥオーゾ志向が強い初演者リンドベルイよりも、本録音のスヴォボダの方がこの作品には合っているように思われる。《ピソプラクタ》(1955-56)から《ペルセポリス》(1971)あたりまでの最もハードコアな作品群(2003年にはRZレーベルによる、このあたりの音源の一挙復刻という快挙もあった)を知っていると、オーケストラが1本の太い線と化して蛇行するこの時期の作品群の異様な単純さには馴染み難いが、《Anastenaria》3部作の作曲家がそのまま晩年を迎えたと思えば、この作風にも納得できる。晩年のクセナキスは、直感を重視して体系的な理論は使わなくなったと語っているが、人間の直感は数十年のキャリア程度では変わらないものなのだと感じさせられる。ヨーロッパの伝統の外側にある現代作品を数多く手がけてきたルンデルと、シュトックハウゼンの《光》シリーズの長年の演奏経験(ルシファー役の器楽パート長)から、調性と無調の狭間に浮かぶ息の長い旋律を聴かせる術を身に付けたスヴォボダが示した解釈は、いまだ演奏伝統が確立していないこの時期のクセナキス作品のメルクマールに成り得るだろう。

 もう1曲のカップリングは、タバシュニクが振った《冥界》(1980)。近年は「太陽寺院」の事件への関与疑惑で有名になってしまったタバシュニクだが、大量の音群を無慈悲に鳴らす能力には卓越したものがあり、彼の不在は、クセナキス演奏には大きな痛手だった(2001年に証拠不十分で無罪判決を受け、演奏活動に復帰したが、現在も再審裁判が続けられている)。本作は、《エヴリアリ》(1973)から《タレイン》(1984)あたりまでの、激しく運動するクラスターが多層的に絡み合う刺激的なサウンドと明快な旋律が共存した、クラシック音楽的な意味で「聴きやすい」作品群の中でも、特に華がある曲のひとつであり、サッカス(Bar.)とグァルダ(Perc.)をソリストに迎えた世界初演の録音。声の線を管楽器群、打楽器のリズムを弦楽器群が受け継いで展開し、死の避け難さを畏れるホメロスのテキストや、死への欲望を語るサッフォーのテキストを、ファルセットで絶叫したり、シュプレッヒシュティメで追い立てるように語ったり、一転して静かに歌ったり。高揚した語りには打楽器が合いの手を入れ、切々とした歌には抒情的な対旋律が絡み、実にロマンティックでわかりやすい。見通しの良い演奏解釈に加えて、バリトンのファルセットの多彩な叫びという「使い減りするレア楽器」の状態もその後の録音よりも格段に良く、この初演の録音は、越えられない高い壁としてそびえ立っている。

 2000年末の録音後、程なく行われたリリース予告では、シェルヘンによる《ピソプラクタ》の初演も収録曲目に含まれていたが、その後リリース延期が繰り返されるうちにこの話は立ち消えになった。資料的には残念だが、最終的な曲目は民族的な要素を含む作品で統一されたので、コンセプト的にはこれで良かったのかもしれない。このディスクには、先に述べた最もハードコアな時期の作品は含まれていないが、《Kraanerg》(1968-69)の新録音がそれを補完している。この作品の最も重要なポイントであるアンサンブルとテープ音響のバランスにおいて、過去2枚のCD録音をはるかに上回っており、本レビューの最後で簡単に触れておきたい。

 このディスクの最大の功労者は、録音担当のAndreas Wernerである。録音プロデューサーと編集&マスタリングも兼務した彼は、アンサンブルとテープ音響が空間を共有するような音像を作り上げた。この作品では両者が同時に鳴らされる場面は少なく、しかもテープ音響の素材はアンサンブルの録音を変調したものなので、この処理は妥当である。ウッドワード盤(楽器の輪郭を残したテープ音響のレベルを大きく下げ、ホワイトノイズ的な音響をアンサンブルのBGMとして流す恣意的な処理)やボーンスタイン盤(アンサンブルは手前、テープ音響はステージ奥に、書き割り的に定位させた処理)と比較しても、「正道かつ王道」と言える。さらに、楽器の定位を前後左右に分散させて個々の音の細部を拡大し、テープ音響の定位も立体的に振り回して、作品の情報量の多さを余さず引き出した。均質な音響が70分余り続く作品を一瞬たりとも飽きさせることなく聴かせる、Alexander Winterson / バーゼル響による密度の高いアンサンブルも素晴らしいが、これはオーケストラの本拠地で3日間かけて録音した制作姿勢の賜物だろう。本作は、傑作揃いのこの時期のクセナキス作品の中ではいささか影が薄かったが、この画期的な録音の登場によって、さらなる注目を集めるに違いない。

 クセナキス受容をディスクから眺めると、1960年代後半から70年代前半にかけてが最初のリリースのピークだった。西側諸国の順調な経済成長の中、メジャーレーベルが競って現代音楽を録音していた時期で、戦後前衛の主流とは一線を画したクセナキス作品の需要は高かった。この時期は彼の創作力のピークと一致しており、多くの優れた録音が生まれた。彼の死の直前、00年代に入る頃からのリリースラッシュは、この時期以来久々に訪れた第2のピークと言えそうだが、その背景は大きく異なる。今回のブームは、アナログテープ音楽の再発盤(《東洋‐西洋》《ボホール》他(EMF, EM102)、《ペルセポリス》(Fractal, 0X)など)の好調なセールスが呼び水になった。「音響派」ブームとともに、現代音楽のリスナーはクラシック音楽聴取層のはるか外側まで広がり、かつてはクセナキスの音楽が白眼視される原因になったクラシック音楽の伝統との距離の大きさは、むしろ彼の音楽の「聴きやすさ」と捉えられるようになった。メルツバウ大友良英池田亮司らによる《ペルセポリス・リミックス》(asphodel, 2005)は、象徴的なリリースだった。とは言っても、リリースの対象が前衛の時代のテープ音楽の復刻にとどまる限りは、主要作品が一通り聴けるようになったら失速する、一過性のブームにすぎないだろう。だが、タマヨルクセンブルクフィルによるオーケストラ作品集(timpani)が継続的に発売され、さらに今回紹介したような優れた新録音も行われている現状は、次の段階に進みつつあるのではないか。

(c) 2003 Yoshihiko NONOMURA
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