2006年のベスト10 |
野々村 禎彦 |
(01) [Puzzle] 駒場和男詰将棋作品集『ゆめまぼろし百番』
(02) [Live] 山内桂のライヴ活動
(03) [Film/Live] ジガ・ヴェルトフ監督『カメラを持った男』(音楽:鈴木治行)
(04) [Live] from between@上尾・バーバー富士
(05) [Comic] 西原理恵子『いけちゃんとぼく』『パーマネント野ばら』
(06) [Art] ビル・ヴィオラ『はつゆめ』展
(07) [Disk] 中村としまる&Klaus Filip: aluk
(08) [Book] 松浦寿夫・岡崎乾二郎『絵画の準備を!』
(09) [Disk/Art] 梅田哲也:ocket
(10) [Live] Feldman: String Quartet 2 by Ensemble Bois
(次) [Art] 大竹伸朗回顧展『全景』
あらためて振り返ってみると、2006年は実に豊かな年だった。最初と最後に足を運んだイヴェント(鈴木治行版『カメラを持った男』とビル・ヴィオラ展)がともにランクインしていることからも明らかなように、1年を通じて質の高いライヴが続き、積年の渇きを埋めるディスクも相次いで発売され、書籍や展覧会にも、単なる満足以上を与えてくれるものが多かった。冒頭に掲げた普段通りの総合ベスト10だけでは、この年の豊かさを説明するのは難しい。そこで、狭義の「音楽」(本サイトではLive Review / Brief Report / Disk Review の対象になるもの)とそれ以外(豊作な音楽関係の出来事を吸収するため、拡大解釈気味になっている)に分けて10件ずつ挙げる構成を取った。
(01) [Live] 山内桂のライヴ活動
(02) [Live] from between@上尾・バーバー富士
(03)[Disk] 中村としまる&Klaus Filip: aluk (IMJ, 526)
(04) [Disk/Art] 梅田哲也: ocket (IMJ, 701)
(05) [Live] Feldman: String Quartet 2 by Ensemble Bois
(06) [Disk] メルツバウの新譜群
(07) [Disk] Luc Ferrari: Far-West News (Episodes 2 & 3) (Blue Chopsticks, bc16)
(08) [Live] 吉村光弘のライヴ活動
(09) [Live] 入間川正美:セロの即興もしくは非越境的独奏'06
(10) [Disk] Nancarrow: Studies 1-12 (MDG, 645 1401-2)
(次) [Live] 杉本拓&宇波拓の諸企画
(01) 山内桂のライヴは、本サイトでも何度も取り上げた。ドネダとのデュオ、Sachiko Mとのデュオ、なってるハウスでのソロ、Loop Lineでのソロ....いずれもベスト10に入っておかしくない得難い体験であり、また筆者が足を運べなかった公演にも、同程度のものはいくつもあっただろう。そこで、個々の公演に細かく順位を付けるよりも、山内の音楽活動全体を2006年最大の出来事としてまとめて扱うことにした。彼の活動領域は現在も広がり続けており、鈴木治行の新作を山内が初演する企画も進行中だという。
(02) ドネダ、ライト、中谷のユニットfrom betweenは、本サイトではファーストアルバムをレビューしたが、バーバー富士でのライヴはさらに素晴らしかった。日本ツアーのフライヤー制作に協力した関係でレビューは遠慮したが、ライヴ単体としては2006年で最も強烈な出来事だった。ドネダのプレイにライトがオブリガートを付け、その状況全体を中谷がフレームに入れることで、ドネダですらソロでは到達できない次元の音楽が易々と実現されている。齋藤徹が加わったカルテット@新宿ピットインも聴いて、この状況はこの3人でなければ起こり得ない奇跡なのだと実感できたことも、今となっては収穫だった。
(03,04) Improvided Music from Japanのサイトや年刊誌は今後も継続されるが、このレーベル名によるディスクリリースは2007年初頭の《Marginal Consort》4枚組が最後。それに相応しい優れたディスクが相次いでリリースされた。中村とフィリップのデュオは、池田亮司が《+/-》で切り拓いた後は池田自身も含めて誰も続かなかった、正弦波発振音のみで構成された密室世界の系譜を、「単純な倍音構造を持つ発振音全体」に拡張して受け継いだ記念碑的な録音である。しかもこの達成を、かつては「うた」の道具としてno-input mixing boardを用いていた中村が成し遂げたのだから感慨深い。同時期のボストンシーンでの達成と並ぶ、「音響」の時代の最後の輝きになりそうなので、レビューしておきたいのだが。梅田のディスクは、サウンドインスタレーションの記録音源集だが、コンセプトを設定してそれで良しとするのではなく、まず音響世界を設定し、必要なオブジェや環境を逆算して作り出すスタンスは、このジャンルにおいては革命的である。インスタレーションという形態も飾りではなく、不確定性を自然に取り込んで音響の緊張感を高めている。このディスクに限らず、梅田の活動の包括的なレビューはいつか書きたいと思っている。
(05) フェルドマンの弦楽四重奏曲第2番の日本初演が、いわゆる現代音楽の世界では群を抜く事件だった。残響の多い会場を選び、7時間半を要した解釈は、アンサンブル・ボワの若さあってこそのものだったが、2年がかりの川島素晴個展など、意欲的な企画を続々打ち出すこの団体のヴァイタリティは、明るい話題の少ないこの世界では稀少な希望の光だ。本サイトでもレビューした。
(06) 2005年末のImprovised Music from Japan誌にも長文レビューを書いたが、ここ数年のメルツバウのリリースは実に質が高い。2003年録音の《cycle》《offering》《Sha Mo 3000》で一度ピークを迎えた後、2005年録音の《rattus rattus》からさらにアクセルを踏み込んだ彼は、《放生会》6枚組や《turmeric》4枚組の物量攻勢を経て、《Senmaida》《Live in Geneva》《Metamorphism》の一連のリリースで、90年代半ばに勝るとも劣らない、創作歴指折りのピークに達したように思われる。それでもこの程度の順位なのは、「メルツバウのリリースは素晴らしいのが当たり前で、大騒ぎするにはあたらない」という賛辞の裏返しだと思って頂きたい。
(07) フェラーリの後期代表作も、これでようやく全貌が判明。当初は第1部同様、フランス国立放送のSignatureレーベルから、他の作品とカップリングして全3枚でリリースされる予定だったが、このシリーズは後になるほど生き生きとした音楽になるので、比較的入手が容易なグラッブスの個人レーベルからまとめてリリースされたのは、結果的に作品にとっても良かったのではないか。初来日企画に協力した関係で音源自体は以前から持っていたが、多層的な音響世界を満喫するには、丁寧にマスタリングされた正規リリースが不可欠だった。第1部と合わせて近々レビューしたい。
(08) 吉村光弘の活動も、2006年の突出した出来事のひとつだった。彼は(h)earringsというライヴ企画を数年前から行ってきたが、会場を千駄ヶ谷・Loop-Lineに固定し、ヘッドフォン・フィードバックという方法論を確立させたのが2005年。そして昨年から、音楽家との共演をプログラムに組み込み始めた。まずはエレクトロニクス奏者から、徐々に生楽器奏者へ。この間のライヴ音源も2007年1月にリリースされた。また、彼が編集する音楽批評紙『三太』が始まったのも2006年だった。彼の一連の音楽活動を包括的に振り返るレビューを予定している。
(09) 地味ながら充実していた2006年の出来事の中でもいぶし銀の輝きを放っていたのが、本サイトでも詳しくレビューした入間川正美のチェロソロ即興ライヴだった。音響的即興の歩みが、この潮流とは表向き無関係に活動を行ってきた優れた音楽家の中で繰り返されたことは、この潮流が一過性の流行ではなく、「歴史的必然」だったことを示唆している。
(10) ナンカロウの自動ピアノのための練習曲集はWERGOレーベルの全集で聴いてきたが、アイディアは興味深いものの、世間での評価は過大ではないかと思ってきた。だが、あれはハンマーのフェルトを剥がした特殊なピアノによる録音で、本来はこういうサウンドなのだと示されてようやく納得。これは確かに凄い。リゲティが「アイヴズ、ヴェーベルンと並ぶ20世紀最大の発見」「20世紀後半で最も優れた音楽」と騒いだのも頷ける。この第1集は第12番まで、ジャズ風のフレーズがしばしば現れる比較的聴きやすい音楽で、曲によっては人力演奏も不可能ではないが、作曲年代が下るにつれてより複雑で刺激的な音楽になってゆくので、ここ数年はベスト10の常連になるだろう。
(次) 杉本拓作曲シリーズ、『三太』(吉村光弘、杉本、角田俊也)、野外音楽会シリーズ(杉本、宇波)、Loop-Line室内楽シリーズ(杉本、大蔵雅彦、宇波)、軽音楽フェスティヴァル(宇波)、ホース定期演奏会(宇波)。2006年にふたりが始め、あるいは本格化させた企画を挙げてゆくだけで、日本の即興音楽年表のこの年は終わってしまうのではないだろうか? いくつかの公演は本サイトでもレビューしたわけだが、ベストで重要なのは達成度なので、今後の展開が楽しみな企画はいくつもあることを強調して、まずは次点として特記するにどどめた。
音楽関係のトピックを例年よりもかなり多く挙げたが、2006年はこれでも語り足りない。例えば黒田京子は、2006年には難聴を発症して公演は減ったとはいえ、"ORT Music"を立ち上げて演奏会企画を始めるなど、音楽活動全体は総合ベスト10に入っていた過去2年と比べて決して見劣りしないが、それでもこの年では選外になってしまう。高柳昌行の《Axis》《Lonely Woman Live》等が一挙に復刻されたのも大きな事件だったが、現場で起こっていたことに比べれば過去の出来事に分類されてしまう。高瀬アキ弦楽五重奏団《Tarantella》の10年越しの初リリースも、本サイトでもレポートしたシュタングルと宇波拓の奇跡的なライヴが《i was》としてリリースされたことも、近藤譲作品集《オリエント・オリエンテーション》のリリースも、こんな年だったのが運の尽き。ただし、川島素晴企画「作曲家の音」第4回の近藤譲個展は、筆者が会場を間違えずに全曲聴けていれば疑いなくベスト10に入っていたコンサートなので、返す返すも残念だ。
(01) [Puzzle] 駒場和男詰将棋作品集『ゆめまぼろし百番』(毎日コミュニケーションズ)
(02) [Film/Live] ジガ・ヴェルトフ監督『カメラを持った男』(音楽:鈴木治行)
(03) [Comic] 西原理恵子『いけちゃんとぼく』(角川書店) 『パーマネント野ばら』(新潮社)
(04) [Art] ビル・ヴィオラ『はつゆめ』展@森美術館
(05) [Book] 松浦寿夫・岡崎乾二郎『絵画の準備を!』(朝日出版社)
(06) [Art] 大竹伸朗回顧展『全景』@東京都現代美術館
(07) [Book] G.ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』(新潮社)
(08) [Comic] よしながふみ『大奥2』(白泉社)
(09) [Book] 川崎弘二『日本の電子音楽』(愛育社)
(10) [Art] 藤田嗣治展@東京国立近代美術館
(01) 筆者が「芸術的創造」の世界に唯一足を踏み入れたのが詰将棋創作だった。通常の将棋のルールに沿って連続王手で敵玉を詰める際に、詰手順の唯一性を保って詰上がりに持駒が残らないように作るという厳しい制約があり、コンピュータソフトを用いた検討の普及以前は、完成までには膨大な時間を要した。当時の筆者にとって神に等しい存在は、まず『将棋無双』『将棋図巧』を献上した江戸中期の将棋名人、伊藤宗看・看寿兄弟であり、次いで「昭和の四天王」山田修司・駒場和男・上田吉一・若島正だった。この中でただ一人作品集を刊行していなかった駒場が、無防備玉煙詰の1号局「36人斬」・還元玉都煙詰の1号局「父帰る」などの代表作を含む全格配置100局を遂にまとめた(注)。検討と修正に10年以上を要したという。書籍として読むと自作解説の「痛さ」に萎えてしまうが、論理性と芸術性が完璧に融合した作品群には頭を垂れるのみ。
(02) サイレント映画に生演奏を付ける上映は、ライヴ音楽に含めてもよいのだが、音楽関係は既に満席なのでこちらに。本サイトでも早々にレビューしたが、from betweenのライヴに勝るとも劣らない体験だった。映像とノイズの圧倒的な相乗効果に加え、鈴木治行の音楽を特徴付けている「身体化された知的操作」が随所に顔を出し、各々メルツバウと近藤譲の音楽に反応する脳内部位が同時に興奮するような、なんとも奇妙な時間だった。映画もまた素晴らしく、ただただ圧倒された。
(03) 西原理恵子は片っ端から買う作家の一人だ。彼女の作風は鴨志田穣との結婚を期に大きく変わり、彼のアルコール依存症が進行して離婚のやむなきに至った時期の『できるかなV3』『上京ものがたり』『女の子ものがたり』等の作品には、彼女らしからぬ自己肯定リハビリテーションが感じられた。だが、私生活の混乱が一段落して連載を始めた『いけちゃんとぼく』『パーマネント野ばら』は、彼女の最初のピークをなす『ゆんぼくん』『ぼくんち』では扱いきれなかったテーマを再び取り上げてさらに深化させており、まとめて読むと感銘がいや増す。詳細はレビューする予定。(追記:西原は、アルコール依存症を克服したら末期癌だと診断された鴨志田と復縁し、彼との最後の日々を『毎日かあさん4』に記録して喪主も務めた。彼女は漢の中の漢だ。)
(04) ヴィデオアートのパイオニアによる、インスタレーション的味わいの近作を中心とする個展。展覧会表題作の限定上映は見逃したが、一見ありがちな映像と音響の結合を絶対的な総合芸術に昇華させる視点を、鑑賞者が自ら発見することが求められている。人体スローモーション初期の、炎に包まれる映像と水流に潰される映像が同一の音響のもとで成立することを示した作品なら、背中合わせのスクリーンの脇では両者の対応が一歩踏み出せば見られるし、話し声が素材らしき茫漠とした音響を背景に、粒子の粗い映像を4面スクリーンに映す作品では、スクリーン中央の一点のみで、耳元で囁くようなリアルさで立体的な音像が結ばれる仕掛けになっている。人体スローモーションの発展型の、古典絵画活人化シリーズやドラマ仕立ての作品はピンと来なかったが、音響を伴う作品群の迫力だけでも大したもの。
(05) いずれも美術作家=批評家であり、互いをリスペクトする「天才」=岡崎と「秀才」=松浦が、古今東西の絵画について語り尽くした対談集。原著作は2002年刊(対談は1995年から)だが、「911以降の状況」を踏まえた加筆修正が行われたのが本書である。「天才」ならではの直観と、「秀才」ならではの隙のない論証が噛み合って、ひとりの超人が「絵画史の全体像」を活写したかのようだ。批評に携わる者としては垂涎の著作だが、それでもひとりの優れた作家の代表作の誕生には及ばないランキングは、作家でもある彼ら自身の実感にも適っていると思う。
(06) かたやヤマタカEYEとのノイズユニット19、かたや武満徹とのコラボレーションと、非常に振幅の大きい創作活動を行ってきた大竹伸朗の、小学生時代のマンガの模写にまで遡って展示した、文字通りの「全景」。「量も積もれば質に転化する」という現象はマンガやジャンル小説ではしばしば起こっているが、美術でも起こり得るものなのだ。もちろん、習作と創作の境界線を引くタイミングの適切さに端的に表れている、彼の作家としてのモラルの高さあってこそのものだが。
(07) マルケスのノーベル文学賞受賞後の代表作と目される長篇が、出版から20余年を経てようやく邦訳された。並の作家なら数百本の大衆小説にして大儲け、な素材の数々を刈り込んで詰め込んでゆくうちにそれ以上のものに変容してゆく手並みはいつもながら鮮やかだが、19世紀小説的な惚れた腫れた以上のことは起こらないので、『百年の孤独』や『族長の秋』の、個人と家族と社会と世界の境界が溶けてつながった(中間が描かれる点が、1・2・無限大しか存在しない「セカイ系」との最大の違い)世界に馴染んだ者には物足りない。出版は20年後だが邦訳出版はほぼ同時だった『わが悲しき娼婦たちの思い出』のように、単一素材で書いても単なる大衆小説には終わらないのだから、えらく燃費の悪い小説だ。とは言っても、この程度の順位には入ってくるのだが、それは本作での方向転換から後期代表作の名にふさわしい『迷宮の将軍』が生まれることを知っているからかもしれない。
(08) 筆者がよしながふみ作品を読み始めたのは遅く、『愛すべき娘たち』からだが、一度火が点いたらBLも含めた全作品収集に走るのは当然の成り行き。ビブロス社が倒産する前に収集が完了したのはラッキーだった。パターンには収まらない感情の機微を描きながら、社会の中で生きる者は何らかの役割を演じていることを冷徹に描き出してゆく。『フラワー・オブ・ライフ』をコンパクトに終わらせ、現在の彼女が総力を注いでいるのが『大奥』。男女逆転大奥というSF的発想は、吉宗時代の断片を切り取った1巻では「荒唐無稽だが興味深い設定」だったが、男女逆転が起こった家光時代の記録を濃密に再構成する2巻になると、男女逆転を仮定した方が史実を合理的に説明できるような気がしてくるところがまず凄い。同性愛関係を仮定した方が原作の世界観を深く説明できるような気にさせるのがやおいの妙味なので、それを史実で実現するのは、かつて慣れ親しんだ創作スタンスの創造的な拡張に他ならない。壮絶だが美しいとしか言いようのない最終頁に至る怒濤の展開は、ベルばらマニアよしながの本領発揮とも言えるが、血縁とジェンダーの歪みと矛盾、それを超える普遍的な愛に、この水準で到達した表現はマンガを離れても決して多くない。それでもこの程度の順位なのは、大奥の終焉まで丁寧に描くと宣言されている作品の全体像の中では、まだ序章にすぎないから。レビューは完結まで待ちたい。
(09) 日本の電子音楽史概説+関係者23人へのロングインタビュー+「デスコ川崎」の本領を発揮した驚異的な情報量の資料集。情報と批評は違う、と強調する批評家がインターネット時代を迎えて増えたが、情報も積み上げるとどれほどの高みにまで到達するのかを、まず知っておく必要がある。最もコアな情報はいくらネットで検索しても得られないし、批評的視点を極力排除するスタンスが、本書の成功を生んだ。(追記:だが川崎は、このような総括をも乗り越えようとしているようだ。)
(10) 年末に大物展覧会が続いてやや影が薄くなったが、藤田の主要作品が一堂に会したのみならず、従来は公開困難だった戦争画をまとめて展示し、この作品群こそが藤田の創作史を理解する鍵になることが明示された。個々の作品からも、回顧展としての物量からも、存在の根幹を揺さぶられるような衝撃は受けなかったが、絵の配置や照明にも工夫をこらし、藤田の歩みを通じて近代美術史の一断面を浮かび上がらせたキュレーションは見事だった。展覧会にはこのような可能性もある。
これら以外で特筆したいのは、音楽関係の記録映画も豊作だったこと。宮岡秀行監督『リュック・フェラーリ:ある抽象的リアリストの肖像』の公開に併せて上映されたジャクリーヌ・コー&オリヴィエ・パスカル監督『ほとんど何もない:リュック・フェラーリと共に』は、併映されたフェラーリによるシュトックハウゼン《モメンテ》のリハーサル映像ともども実に内容が濃かった。ジェフ・フォイヤージーグ監督『悪魔とダニエル・ジョンストン』は、伝説的な「アウトサイダー・シンガー」を節度を保って記録した映画。彼の精神の崩壊は、あまりに純粋な魂が米国社会の病を正面から受け止めてしまったということなのだろう。青山真治監督『AA』は、間章の足跡を辿った関係者へのインタビュー映像をまとめた長大な記録。ドキュメンタリーとしては破綻した7時間の空虚が、間は彼の文章の中だけに存在していることを逆説的に浮かび上がらせる。
(注) 詰将棋用語はこちらにまとめておく。(1) 煙詰:初型は全駒配置(通常は詰方の玉を除く39枚だが、詰方の玉も含む「双玉煙詰」もある)、詰上りは最小駒数(通常は玉+詰方2枚、中段玉の場合は玉+詰方3枚)になる条件作。1号局は伊藤看寿『将棋図巧』第99番。長らく再現不可能な「神局」とされていたが、1952年(修正図は1954年)に黒川一郎が2号局を発表してから徐々に作例が増え、現在では専門誌には毎月1局程度は発表され、別の趣向と組み合わせなければ評価されにくいほどポピュラーな条件になった。駒場の2局も他条件との組み合わせである。(2) 無防備玉:初型で玉方には玉以外の駒が配置されていないという条件。煙詰との組み合わせが最も困難な条件である。(3) 還元玉:初型と詰上りの玉位置が同じになるという条件。(4) 都詰:詰上りの玉位置が盤面中央の5五地点になるという条件。(5) 全格配置:初型の玉位置が1一から9九まで全て揃っていること。無双&図巧以来、全格配置100局の作品集を上梓することは、一流詰将棋作家の条件とみなされるようになった(クラシックで言えば、平均律クラヴィーア曲集以来、小品集は全調性を揃えることがステイタスになったように)。