≪ピナ・バウシュとの3週間≫からPACTでの一日

足立 智美

 振付家ピナ・バウシュの60歳を記念して、デュッセルドルフエッセンヴッパタールでは10月初めの3週間に亘って、≪ピナ・バウシュとの3週間≫(Drei Wochen mit Pina Bausch)というイヴェントが繰り広げられている。中核になるのはバウシュ自身の作品なのだが、他にも多くのカンパニー、ダンサーが参加しており、筆者はエッセンの振付センターPACTでおこなわれた"Ein ganzer Tag im PACT"(「PACTでの丸一日」とでも訳せばよいのだろうか)を見た。

 はじめにPACTについて触れておこう。ノルトライン・ウェスファーレン州振付センターPACTはエッセン市郊外にある炭坑跡地Zollvereinの東端にある。Zollvereinは数キロ四方に広がる当地でも屈指の規模の炭坑跡地で、建物のほとんどが放置されたままの状態だが、設備の一部は一般に公開されている。とにかく縮尺を間違えたのではないかと思うくらい巨大な建造物が林立し、その間に森林が広がるという日本では想像がつかない光景で、観光地としてもお勧め。相当歩く覚悟が必要だがその価値は充分にある。東側の部分は主に文化施設として改修され、コンサートホール、デザイン博物館、カジノを備えた複合文化エリアとして機能しており、連日のように何らかの催しがある。またZollvereinの他の部分もところどころ文化施設として利用されており、イリヤ・カバコフの3階建て規模のインスタレーションが室内に鎮座しているところもある。この地域では炭坑がかつては経済を支え、現在は文化を支えているといっても過言ではない。PACTはこの地方のダンスの中核施設であり、公演の他、ダンス・クラス、レジデンス・プログラムや公募公演などをおこなっている。大ホールは400人規模で、傾斜が急で非常に見やすいが(こちらのダンス用ホールはどこもそうだが)、ソロを見るには少しばかり大きすぎる。

 この日は1日で11プログラムが見られるという特別な日で、全日チケットが20ユーロ。2時半から若手を中心とした5プログラム。5時からThierry de Meyによるレクチャー。8時から同じくティエリー・ドゥ・メイのフィルム上映。9時からが既に知名度の高い振付家による3作品。エキストラ・プログラムとしてEva Meyer-Kellerのパフォーマンスが3回。順を追ってレポートしよう。


 最初はイスラエルのRonit Zivの"Rose can't wait"。なんとも文学的なタイトルだが内容も文学的。作家を含むふたりのダンサーによるデュエット。植木鉢を並べるシーンから始まり、シンセの単調な反復音と女性の絶叫(ディアマンダ・ギャラス)の録音に乗せてバレエのテクニックにのっとったユニゾン部分が続く。完全なユニゾンと思わせておいて時に左右対称型や息をのむようなアクロバティックなフレーズが挿入される。そのタイミングは計算しつくされているし、なにしろ巧いので飽きさせない。小さな椅子の上で飛び込んでくる相手の体をキャッチするなどなかなかできることではない。しかし後半、メランコリックなメロディーに乗せて展開されるコンタクト・インプロヴィゼーション風の振付部分にはちょっと飽きてしまった。

 ベルギーのMette Ingvartsenの"Manual Focus"はアイデア勝負の実に楽しい作品。全裸の女性ダンサー3人がでてきて、男性のマスクを後ろ向きにかぶる。モンスター風だがこういう顔は実際にいないでもない。そして絶対に素顔をみせずに四つ這いあるいは腹這いになってうろうろする。言葉では説明が難しいが、通常の四つ這いがマスクが逆についていることでブリッジをしているように見えるのだ。舞台上をあっちこっち行ったり来たり、絡み合ったり、時に横になり側転などまでやってのける。普通に考えればどれもそれほど難しくない動きなのだが、ついつい中国雑伎団を見てるような気分になってしまう。完全に無音なのに、時に起きる絶妙のシンクロは一体どうやってカウントしてるのだろうか。飽きてきたなというころに新しいネタが投入され、とにかく笑いの止まらない作品であった。舞台は幕も完全に取り払い素のまま。薄汚い壁や非常口が舞台奥にそのまま見えるのだが、その殺風景さが実によく似合う。それにしてもこれは素晴らしいエンターテイメントなのだが、よく考えれば女性のヌードとマスクの関係を主題として扱っているわけでなかなかのものである。またケースマイケル門下とのことだが、師の影響をほとんど感じさせないあたりも才能を感じさせる。

 観客をその場で楽しませることに主眼をおいた作品が続いたが、次のOpiyo Okachの"No man's gone now"は随分と内省的な印象をもたらした。ケニア出身のフランス在住の黒人ダンサーによるソロ・ダンス。おそらくはほとんどの部分が即興によるものと思われるが、もはやこの世界ではクリシェになってしまったバレエを分解したようなフォーサイス的な動きが中心。ただし腕が伸びきる寸前のスピードのコントロールや、全体のバランスを崩してしまうような執拗な反復が面白い。ときどきビル・T・ジョーンズを思い出してしまったのは、何も黒人だからという理由ではなかったように思う。Julyen Hamiltonによる生い立ちを語る英語の朗読がときどき挿入される。思わせぶりな歩行やテキスト、音楽をなしにして1時間の即興でもみてみたいと思わせるダンサーであった。

 休憩をはさんで次はカナダ出身、ベルギー在住のUla Sickleのソロ"figure f"。アメリカ的といういいかたもできなくもないが、今どきのコンテンポラリー・ダンスでは珍しく、体のフォームとテクニックの関係を扱った非常に好感の持てる作品であった。体を分割し、どのような順序で動かすかをコンセプトにしているようで、部分部分を見ると実にスムーズなのだが全体を見るとギクシャクした印象を与える、まったく新しい動きである。途中、揺れるカーテンの映像が挿入されて何かと思ったら、次に出てきたときのスカートの襞のアップであったり。考えられた見せ方ではあるが、欲をいえば演出の要素を廃してもっと純粋に動きだけを追求して欲しい。小さな空間で是非また見てみたいダンサーである。1978年生まれだからこれからが非常に楽しみである。

 この回、最後は8人のダンサーによる20分ほどのMarco Goecke "Blushing"。Goeckeはシュトゥットガルトで活動する振付家で既に知名度もあるが、別に自前のカンパニーというわけではないらしい。とにかく指の先から、着ているスーツの襞に至るまでの完璧なユニゾンを基調に、騒々しい音楽を背景にして刺激的な細切れのシーンが次から次へと出てくる。空間の使い方は時にジェロム・ロビンス風であり、非常に感覚を興奮させるが、それ以上のものではない。これがダンスの醍醐味だといわれてしまえばそれまでだが。

 実のところヨーロッパでこのようなショーケースを見るのは初めてであったが、多くの作品に見られるコンセプトの甘さや演出の位置づけの曖昧さは日本と共通した弱点である。多くの場合はエンターテイメントに振れることによってその弱点をカヴァーしているように感じられる。違いといえば何よりも基礎的な身体技術の圧倒的な落差であり、これはバレエに匹敵する共通身体言語を未だ持たないコンテンポラリー・ダンスの現状に由来する。小さいときから学ぶ機会も多く、しかも西洋人の体型にあわせて発達したバレエを土台にする限り、この落差はしばらくは埋まらないように思える。しかしこれはあくまで振付という場面に限ってのことで、振付家とダンサーが同じであるソロ・ダンスの場合は必ずしも障害にはならないはずである。この公演に限っていえば一番印象深かったのはUla Sickleであるが、彼女の場合も明らかにバレエが基礎にあるとはいえ、そこから離れる方向でオリジナリティーを獲得している。彼女のダンスにバレエの基礎が必ずしも必要条件としてあるようには思えない。


 さて、全体の進行は良くも悪くもルーズであり(転換中に舞台に掃除機をかけたり、リノリウムの張り替えまで平気でやる)、休憩含めて正味3時間近くかかった第一部の次は、無料プログラムのティエリー・ドゥ・メイのレクチャー。私などまだティエリー・ドゥ・メイは作曲家という印象が強いのだが、ローザスのいくつかの有名な作品を撮影してることもあって、ここでは完全にフィルム・メーカーとしての扱い(彼の実の妹、ミシェル・アンヌ・ドゥ・メイも著名なダンサー/振付家)。話を聞く限り、彼自身の意識も現在は完全にダンス映像に向かっているようだ。幸いにして講演は英語でおこなわれ、ヴィデオ映写と解説が交互におこなわれた。

 彼が最初のダンス映像の試みとしてあげたのが"Table Music"。「名曲」だと思うが、彼はダンス作品として挙げており、本来はヴァンデケイビュスとの共同作業だったらしい。この作品ではテーブルを前に3人の奏者/ダンサーが座り、楽譜を見ながらテーブルを擦り、叩く。ユニゾンやホケットやカノン、そして純粋な身振りを交えた、コンセプチュアルでしかも楽しめる、何度見ても新鮮な作品である。そしてその映像版には、彼のダンス映像を特徴づける要素がほぼすべて現れている。極端なズーム・アップ、ズーム・アウトによる遠近法、そして複数の固定アングルのカット・アップである。彼の解説によれば、ダンスを観客席でみる場合とダンスの映像化の最大の違いは視点の数である。観客席では視点をパンさせられるが移動はできない。したがって映像作品ではカメラをパンさせずに複数の固定アングルの使用に焦点をおいた、ということらしい。そのことがはっきり分かるのが次にみせた傑作"Rosas danst Rosas"である。冒頭の雨の校舎を走るダンサーをカメラはパンせずに並行に追う。つづく非常に印象的な椅子のシークエンスでは、相当数の固定アングルがダンスのリズムにのせて切り替えられる。遠近法の極端な切り替えと、厳格な固定アングル(ダンサーの動きがアングルの外に飛び出してしまうこともまれではなく、レクチャーでもダンサーの動きを「追わない」ことを何度も強調していた)、そしてダンサーの息音の遠近法まで相まって、驚くべきシークエンスが形づくられている。

 その他いくつかの試みが紹介されたが、最近の彼の関心はマルチ・スクリーンとナラティヴな要素に向かっているらしい。最新の仕事として挙げたのがラヴェルの《マ・メール・ロワ》の映像化で、バレエの物語をベースに森の中で沢山のダンサーに即興してもらい、それをあとで編集したもの。複数のアングルの切り替えがマルチ・スクリーンに結びつくのは当然のことで、同じダンスを複数アングルから見せるだけではなく左右で微妙に異なったシーンだったりと、その関係は音楽的で実に手の込んだ作品だった。ただしナラティヴな要素は映像を審美的なものに見せていたのは否めない。ここはかなり趣味が分かれるところであろう。話は具体的な事例に終始したが、舞台で見せられないものからダンス映像を作り出す彼の立場は明快で興味深いレクチャーであった。ちなみに会場はPACT向かいの、炭坑作業で使った道具を並べた(単にごちゃごちゃ机の上に並べただけ)建物の木造中二階という奇妙な場所で、過剰に装飾された窓から差し込む夕日を背景におこなわれた。

 このあと、この日3回公演されたベルリン在住のEva Mayer-Keller の "Death is certain" の最終回を見た。これも無料公演で会場は小さなスタジオ。40-50人ほどの観客が取り囲む中で上演された。ダンスではなくパフォーマンス・アートという括りであり、場所としても観客の人数から言ってもまったくダンス公演とは区別されているのだが、先のダンス公演で感じた欲求不満を解消してくれる素晴らしいパフォーマンスであった。タイトルは「死ぬのは確かだ」とでも訳せばよいのだろうか、内容は端的にいえば苺に対するさまざまな拷問である。テーブルに苺を数10個整然とならべ、となりに並べたさまざまな「拷問道具」で責めさいなむ、という趣向。エプロンをしたEva Mayer-Kellerはひとつひとつ苺を取り上げては釘を打ち込み、230Vの電圧をかけて焼き、土に埋め、アイロンで焼きつぶし、ヘリウム風船で吊り上げダーツで打ち落とす。最後はあろうことか苺ジャムの中に埋める。40分の間、たったひとつのコンセプトを反復しているだけなのだが、まったく飽きることはないし、この種のパフォーマンスにありがちな手際の悪さも感じられない。身体的な技術を否定しているという意味で正統的なパフォーマンス・アートといえるのだが、その代わりとなるコンセプトを適切に用いている。しかもこれが身体表現であることは否定しようがない。Eva Mayer-Keller はジェローム・ベルのようなパフォーマンスとダンスの中間に位置するような作家とも共同作業しており、おそらくはその文脈からこの公演に参加していると思われるが、身体表現の可能性をこの日最も鮮やかに見せてくれた。


 8時から予定されていたティエリー・ドゥ・メイの新作映像 "Counter Phrases"(ドゥ・メイの撮ったダンス映像につける音楽を12人の現代音楽作曲家に委嘱したもの。作曲家にはライヒアペルギ細川俊夫などが含まれる)はDVD機器の不調により見られず、9時からJosef NadjSasha WaltzCecile Loyerの3公演。最後のCecile Loyer は時間の都合で見られなかったが、3人とも既に一定の評価を得た作家による、ソロ、デュオ、トリオの小規模作品。

 最初のジョゼフ・ナジは、かつてソ連時代のアヴァンギャルド・ジャズの立役者の一人であったドラマーVladimir Tarasovとのコラボレーション作品 "The Last Landscape"。ナジのダンスは私は評価しないが、この組み合わせには興味を持った。世代もジャンルもまったく違うものの、同じスラブ系の出身であり、このふたりははっきりと同質の関心(演劇的な要素など)を共有しているからだ。しかし結果はまったくの期待はずれであった。机の上に並べられた打楽器をふたりが出てきてコミカルに叩く。次第にナジは音を出すのをやめ身振りに移行する。タラソフはドラム・セットに移行する。以後、映像やマスクを伴った数分程度の小ネタの連続で、タラソフのドラム・ワークは相変わらず見事だが、彼の本領は長時間に亘るドラミングのグルーヴとユーモアにあるので、このような細切れでは何とも惜しい。ナジが装置に隠れてしまい、舞台上にほとんどタラソフの姿しか目に入らないことも珍しくなく、タラソフを完全に同等に扱おうという意志がナジの演出に見えているだけに、何とも残念であった。マイム調の退屈なダンスも、ドラムに煽られたところで変わることなく不満が残る。その気になればはっきりした世界観を打ち出すことができるナジが、敢えてこのような作業をすることは評価したいが。

 このままでは無料公演の方が面白かったということになりかねかったが、一発逆転ともいうべき快打を放ったのがサーシャ・ヴァルツであった。"Dialoge" といういかにもなタイトルでダンサーや音楽家と共演するという彼女の長く続けているシリーズ。だが直截過ぎるタイトルに充分見合う内容だったように思う。舞台上でまさにダイアローグとしかいいようのない事態が起こったのだ。プログラムには共演者の名前を見つけることができなかったが、舞台袖手前にラップトップその他音響機材が置かれた中にヴァルツと男性ダンサー、音楽家が登場。ダンサー同士は時に交わり、多くの場合は勝手にだらだら踊るのだが、音楽家はまったく違う方向からアプローチ。最初ワイヤレス・マイクを持って現れ、そのマイクの入力に反応してラップトップから複雑な合成音が聞こえるのだが、マイクをぼこぼこ叩きながらダンサーに話しかけたり足下にマイクを置いてみたり、あげくは観客席でしゃべり出すなど、あからさまな普段着が示すように、ふたりのダンサーが作り出す世界にまったく異なるレベルで関係し、ダンサーは時に当惑すら見せる(ヴァルツは一度「こんなんじゃ踊りにくいわ」とまで舞台上で口にした)。結果、ダンスも寸断に次ぐ寸断で、作品としてはまったく破綻を見せた。素晴らしいのは、舞台上で起こる齟齬や衝突を取り繕うことなくストレートに見せてしまう圧倒的な自信とおそらくは信頼であって、3人がダイレクトに絡み合うところなどはありがちな素人臭いインプロヴィゼーションに過ぎなかったりもするものの、なかなかできることではない。

 観客は舞台の中で(あるいは外で)何が起こり、何と何が関係しあっているのかをつぶさに知ることが出来る。それはなまじ仕立てられたドラマよりスリリングだ。また照明も即興であって、舞台上を暗くし天井の機構を美しくみせるなど、時にダンスにあからさまに抵抗する。3人と照明の相互作用は膨大な無駄と一瞬の不可逆的な輝きを見せる。その両者が美しいのだ。唯一の演出と思えるのが、40分過ぎてようやく音楽家がラップトップの前に座り硬質な打撃音を繰りだし始めてから、いきなり子供が舞台に闖入した場面。5-6歳くらいのおそらくダンスの経験もない子供で、一生懸命踊ろうとする。もちろんほほえましく、可愛らしいのだが、ふたりのダンサーもそれに本気で対抗する。更に異なるレベルの表現が付け加わるだけでなく、それまでの破綻の数々でさえ一瞬、演出だったのではと疑わせるだけのインパクトを持った登場であった。案の定だらだらと終了。プログラムには30-40分と記されていたが、正味50分ほど。普通に考えれば長すぎるが、ダンスもネタ切れを感じさせたあたりからの試行錯誤がなんとも面白かったのだから、もっと長くても大丈夫なほど。もうひとつ驚いたのは、これほど完成度の低い作品に見せた観客の熱狂であった。ナジの作品では決してこれほどの熱狂はなかったのだから、観客の寛容さというものではなく、作家の背負ったリスクと成果に対する正当な評価だといえるだろう。


 この日の公演で私はUla Sickle、Eva Mayer-Keller、そしてサーシャ・ヴァルツを高く評価するが(ドゥ・メイは別にして)、興味深いのはこの3者のベクトルがまったく異なっていた点である。Ula Sickleは個人的なダンス・テクニックを扱い、Eva Mayer-Kellerは訓練された身体を否定するところから始め、ヴァルツはダンスそのものからの逸脱。Mette Ingvartsenのように演劇的な表現からも新しい表現を感じることができた。ここから新しい傾向を云々することはまったくできないが、むしろそれは健全なことと思われる。ちなみにほぼ一作品毎にピナ・バウシュが出てきて出演者に花束を渡すのだが、その物腰の美しいこと! やはり非凡の人である。

(2004年10月10日 エッセン・PACT Zollverein

(c) 2004 ADACHI Tomomi
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