ブラッケージ・アイズ 2003-2004:STAN BRAKHAGE film exhibition in JAPAN

足立 智美

 スタン・ブラッケージには、やはりアメリカ実験映画を代表するひとりという形容がふさわしい。とにかくありとあらゆる手法を実験しその作品総数は400本を越えるというこの作家について、整然と論じるのは難しい。しかし今回の15プログラムからなる大規模な回顧展のうち5プログラムを見ただけの私にも(ただし過去にも10本ほどの作品を見ている)、通底する作家の強力な意志を感じることは容易だった。

 まず驚くのは映し出されるイメージの量と質の幅広さである。代表作と目され、今回の上映でも多くの観客を集めていた大作《Dog Star Man : Prelude, Part 1-4》(1961-1964)では、細胞の顕微鏡写真から太陽のフレアにいたる尺度の極端な転換が一瞬でおこなわれる。臓器の赤黒い色彩から雪山の白までの色相の広さ。身近な生活を映した具象とフィルムに直接書き込まれた抽象映像。特に<Prelude>部では莫大で多種多様な素材が対立、融和しつつ、いかなるストーリーに頼ることもなく、映像のリズムをひたすらつむぎ出す。そう、やはり彼の映画には音楽のアナロジーがふさわしい。ブラッケージの音楽に対する意識を知るには、ほとんどの作品が無音であるという事実に留意するだけで充分だろう。ブラッケージは通常の映画で映画音楽が果たす役割を彼の映像自体が担っているという考えだったのだろう。オスカー・フィッシンガーの先駆的な仕事に明らかなように、音楽を映像に移し換えることを出発点とした抽象映画の歴史の中でこれほど映像自体の持つ音楽性にこだわった作家も珍しい。《Dog Star Man》は1時間の中にその後のブラッケージも含めたあらゆる手法が詰め込まれており、ブラッケージの生涯の歩みの縮図のようであるが、既存の映画文法の破壊に焦点をあてたモーリス・ルメートルの影響が直截的で、真に彼のオリジナリティーが発揮された作品とは言い難いように思う。

 むしろ特定の手法や対象にはっきりと焦点を合わせた小品の方に、彼の面白さは隠されているのではないか。《Song Series 1-7, 16-22》(1964-1983)はホーム・ムービーといってよい小品群で、家族の姿、子供の出産から、居間の光景、住処であるコロラドの自然など、ごく日常的な光景を長期間に亘って(子供の成長がうかがえるのが楽しい)8mmのカメラで撮り溜めた作品集だ。カメラはブレやピンぼけを恐れることなく、対象を舐めるかのように動き回る。ジョナス・メカスの日記映画を思わせるものの、外から美しい世界をのぞき込むようなメカスのカメラとは違い、見る歓びと欲望を率直に表しているかのようにも見える。そんな親密な映像の上にスクラッチによる抽象的な映像が被さる。どことなくユーモラスな形態に見えるのは、被写体の持つ性格にもよるのだろうか。この種の映像が陥りがちな安易なノスタルジーを感じさせないのも見事。黄色の花びらの上にスクラッチされた網目模様がかぶさる部分は、具象/抽象の区分を忘れさせる感動的な一瞬だ。

 《The Act of Seeing with One's Own Eyes》(1971)は一転して検死解剖の光景を延々30分流し続ける。フィルムのスクラッチも過度の転換も一切なく、あくまでリアルに、一切のぼかしもなく、肋骨切断、内蔵摘出、頭皮を剥がし頭蓋切開し脳を取り出し頭蓋骨内部の洗浄にいたるまで克明に克明に記録する。おもわず執拗に書いてしまったが、そのくらい執拗に写し続けるのだ。筆者も昔ノイズイヴェントなどで頭部切開の記録映像などよく見せられたものだが、驚くのはカメラの視線が《Song Series》で家族を写していたのとまったく同じ視線に支えられていることだ。資料映像のような客観性は微塵も感じられず、見ることに対する欲望が、ぬらぬらと赤く光る内臓、ぽっかりと空いた胸部すら美しく見せてしまう。《自分自身の眼で見る行為》というタイトルは故なきことではない。

 とはいえ、ブラッケージにおいて筆舌尽くしがたい美しさを持つのは、フィルムに直接絵具でイメージを書き込んだ作品であろう。見ることへの探求は80年代において「閉じた目の視覚」に到達した。と同時に彼は映画をフィルムという物質に還元してしまったのだ。とはいえ彼は原理から出発する通俗モダニストではない。フィルム・ハンド・ペインティングという手法はこの時点では新しいものではないが、転機となった作品《Night Music》(1986)はルーベンスを局部拡大したようなバロック的壮麗さを振りまいている。フィルムを一本の細長いキャンバスに見立てて描かれているので、各コマはいわゆるアニメーションのように連続しているわけではない。したがって目に映るのはひたすらイメージの散乱である。この手法では何コマづつ進めるかによって明確なテンポ感を作ることができる。そのテンポ感と時々挿入される黒の休符によって、陶酔ではなくリズムを感じさせる。後期の彼の作品の中核を成すこれらの作品では視覚におけるリズムを純粋に探求しているようだ。しかし繰り返すようにそこにはオブセッショナルな視覚への欲望がある。

 ブラッケージは映像という表現手段のあらゆる可能性を試みる。手法そのものに対する探求心があったのだろう。その意味で彼はアヴァンギャルドの系譜に属する。しかしその根底にあるのは見ることへの素朴な欲求であろう。「ファウンド・フッテージ」の手法だけはその作品にあまり登場しないのは示唆的である。ファウンド・フッテージはここ10年ほどの実験映像のジャンルで興隆を極めた手法で、既存のフィルムを編集し注釈を加えることで映像の持つ社会性を明らかにする。往々にしてギャグに陥ることも多いが一定の成果をあげたこの手法は、しかし作家個人の視覚に拘ったブラッケージには関心の持ちようのないものだったのではないだろうか。そこには良くも悪くもアメリカ的といってよい個人的実験主義が見受けられる。ブラッケージの最初期の数少ないサウンド映画の音楽をジョン・ケージが担当しているのは何とも示唆的である。


 ところでこの企画は昨年から日本各地で上映会を重ねてきた。これだけの量の実験映画が地方都市を巡回するのはなかなか例のないことで、主催者の苦労にはなみなみならぬものがあっただろう。特にこのシリーズで特筆すべきは昨年の11月に横浜赤レンガ倉庫で、ブラッケージへのトリビュートとしてパフォーマンス、展示がおこなわれたことだろう。今回の東京では、この際に作られた12人の実験映像作家が競作した40分の作品《リスポンド・ダンス・フィルム》が上映された。このフィルムについて最後に述べておきたい。これはひとり3分程度の小品をつなぎ合わせた作品で、かなりのキャリアを持つ作家から若手、ただしフィルムというメディアを主に使用する作家が集まっており、中には高嶺剛のように実験的とは呼べない作家も含まれている。

 初見の作家も多いので、日本の作家たちがどれほどブラッケージを意識してこれらの作品を撮ったのかは判断がつかないが、私の知る限り各人のスタイルからそれほど離れていないように思う。特に60年代のブラッケージの延長線上にあるような作品が多かったが、皮肉なことにそれらの作品はやはり、実験的とされる手法の折衷が現代の表現としてはさして有効でないことを示す結果になっていたと思う。多種多様なイメージの散乱はこの十数年でテレビに溢れかえり、挑発的な意図では使えない。ならばイメージの生産には作家個人の視覚的こだわりか強靱なコンセプトくらいしか可能性は残されていないように思える。しかし多くの作品は実験映画のスタイルに追従するばかりで訴えかける力が弱い。直接ブラッケージを想起させないものの、時代錯誤のロマン主義的ともいえる石田尚志の抽象アニメ、辻直之の雲や山を描いた木炭画アニメ、小池照男の細かく震える水玉模様のように、表現手段を抑制した作品に惹かれた。

(c) 2004 ADACHI Tomomi
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