サイレント映画につける音楽 - <聖なる映画作家、カール・ドライヤー>をめぐる疑問

鈴木 治行

 昨年(2003年)10月から数箇月間にわたって国内の数箇所で催された<聖なる映画作家、カール・ドライヤー>は、デンマークの生んだ映画作家カール・ドライヤーの全作品上映という快挙を日本で初めて成し遂げた企画として、画期的なものであった、ということはまず最初に確認しておきたい。ドライヤーといえば、日本ではこれまでごく限られた一部の作品が限られた機会に細々と上映されるのみで、『裁かるるジャンヌ』や『奇跡』などをはじめとする主要な作品のいくつかは時折見ることはできたものの、全く見る手だてのない作品も多かった。比較的見る機会のある晩年のドライヤーの静謐、崇高といった作品群の一方に、例えばアテネ・フランセなどでたまにかかってきた『牧師の未亡人』の軽妙な喜劇性を対置する時、その振り幅の大きさに、この他の見ることの叶わぬ作品の中にいかなる未知の拡がりが埋もれているのかと、想像を膨らませるしかなかったのだ。しかしその未知の扉はこの企画によってついに開かれることとなった。これは期待せずにおく方が無理というものだろう。ところで本題に入るに際し、僕は東京での企画にしか足を運んでいないので、この文章はすべて東京での企画に限定しての話であることをお断りしておく。

 まずは概要を簡単に記そう。東京での上映会場は3箇所に区分され、それぞれに傾向の違いが見られた。まず最初は有楽町朝日ホールでの『裁かるるジャンヌ』以降の長編6本に短編を1本ずつつけた上映会(即ち、1長編+1短編で1プログラムという組み合わせ)、それに座談会という内容で、いわばこれはこの企画全体のオープニング的性格を担っていたといえる。ついで東京国立近代美術館フィルムセンターでのそれ以前のサイレント映画8本の上映で、これにはすべてピアノの生演奏がつけられた。最後に渋谷・ユーロスペースでの、再び『裁かるるジャンヌ』以降の6本の上映。つまり、長編に限っていえば朝日ホールとユーロスペースの演目はほぼ同じ(『二人の人間』だけ朝日ホールのみ)で、その他の長編はみなフィルムセンターでのみ上映されたということだ。実は、これまで全く日本で見ることの叶わなかったドライヤー作品のほとんどが、このフィルムセンターでの上映プログラムの中に集中していた。そしてそこにピアノの演奏がつけられた。

 サイレントであろうとなかろうと、映像に音楽をつけるということは、観客の映画の見方に一定の方向づけを施してしまうことに他ならぬ。映像は、それだけならばただの無色のイメージにすぎない。それを方向づけるのは、例えば写真につけられるキャプションであったり、映画につけられる音楽であったりする。映画において、整流器としての音楽の力は非常に強いのだ。ただの1つの映像=単なる映像をどう解釈するかについては、本来いかなる1つの正解もない。しかしそこにもし哀愁に満ちた音楽がつけられたなら、その瞬間にその映像は「そういうもの」に見えてきてしまう。それはその音楽をつけた者の「解釈」である。そして今回のドライヤーのサイレント映画につけられたピアノもその例に漏れず、多様であるべき見方の一元化を強制する結果となった。

 そもそもフィルムセンターでは、サイレント映画に生演奏をつけて上映する企画は毎年のように行われてきた。そうした企画では中心はサイレント映画それ自体で、そうである以上、サイレント映画には生演奏をつけるのが本来のあり方だから、というオーセンティックな理由付けは一応の説得力はあったと言っていいだろう。しかし、今回の企画はそうではない。今回の主眼はあくまでカール・ドライヤーという一人の映画作家にあり(それはチラシなどの宣伝の仕方、カタログの方向性などから明らか)、そうである以上、ドライヤーの作品をなるべく夾雑物なく、より理想的な環境で見せるということを第一義とすべきだったはずだ。しかるに、「ドライヤー」を見たかった観客は、否応なくピアニストの一つの「解釈」を押しつけられ、それに誘導されるがままになるしかなかったのである。

 ちなみに、フィルムセンターでの上映でピアノを担当したのは、この道での大家として評価が高いらしいイギリスのピアニスト、ニール・ブランド。僕は今回の彼のすべての演奏に接したわけではないが、映像に対するアプローチは聴いた中ではすべて基本的に同じ路線で、たまたま見なかった回に、彼が全く根本的に異なる音楽的アプローチを取ったとは思えない。彼は「いわゆるサイレントにつける音楽」というものを忠実にこなしていた。つまり、昔からこういう演奏が専らそうであったように、古今のクラシック音楽などの断片を器用につなぎ合わせ、それにその他のパッセージを混ぜ合わせてブリコラージュし、延々と持続する音の織物を作り上げていた。そして画面で展開する物語の急緩にうまく音楽をマッチさせ、山場では盛り上げ、不穏な予兆を感じさせる場面では畏れさせ、悲劇的な場面では哀切なフレーズを朗々と歌い上げ、コミカルな場面では軽快に、そして画面の中に具体的な音源が存在している時はその音の模倣を奏して臨場感を補強する、といった具合で、これは今でも大抵のサイレントにつける音楽では一般的に行われているアプローチである。その限りにおいては、ニール・ブランドはたしかに第一人者らしく、自信に満ちたタッチで「効果的」な音楽をつけていた。「この路線」の中に留まる限りにおいては、これをあるレベルに達した職人芸として評価することはできる。もっとも、僕自身何度かサイレント映画に音をつけたことがあるが、自分がやる時はこうした予定調和的なアプローチには背を向けたいと思ってしまうので、個人的にはこうした音のつけ方には何の新しい可能性も感じないのだが。

 ところで、ここでこの文章の主旨が逸れていってしまわぬように急ぎ断らねばならないが、この場では、ニール・ブランドの音楽のアプローチの詳細やその是非を論じるつもりはさらさらない。問題はそんなところにはないことは明らかなのだ。たとえ今回、「サイレントにつける音楽」のクリシェを踏み越えた音楽を誰かがつけたとしても、この文章の主旨は変わらない。なぜなら、映画作家としてのドライヤーの作品に、なるべく色眼鏡なしの状態で遭遇したいという期待は、そこにつけられた音楽の内容ではなく、その前段階でこの企画に音楽をつけることを判断した時点でもう既に裏切られてしまっていたのだから。つまり、問題は、ドライヤーという作家を前面に押し出した企画なのに、「いわゆるサイレント映画の通例」に寄り添ってこれを生演奏付き企画にしてしまった企画者側にある。ニール・ブランドは依頼された仕事を忠実にこなしたにすぎず、彼を批判するには当たらない。ドライヤーが、自分のサイレント作品の上映に際してこうしたピアニストによる音の方向性まで指定したというのならば話は別だが、そんな話は寡聞にして聞かない。こうして、ドライヤーの映画を単なる映像として受け止め、自分の想像の中で気ままに泳がせたいという期待は、解釈(それも極めてステレオタイプな)の一方的な押しつけに邪魔され、あえなく挫折した。もちろん、音楽をつけないからといってそれだけで究極の理想の上映形態が保証されると言っているのではないが、少なくともよりよい状態へ近づける努力はしないよりはした方がいいというものだ。

 それでも、ドライヤーという固有名詞で目の色を変えているのは一部のシネフィルだけで、一般の人は単にサイレント映画を見に来ただけなのだから、サイレント映画としてオーセンティックな興業形態で、つまり生演奏をつけての上映で構わないではないか、という声もあるかもしれない。それを言うのであれば解決策は簡単で、生演奏付きと演奏なしの両方の回を作って、好きな方を自由に選べるようにしておけばよかったのだ。だが、今回のサイレント作品のほとんどは生演奏なしでは上映されず、選択の権利は予め剥奪されていた。嫌でも無理矢理音楽付きを見るしかなかったのである。それも、もしかするともう二度と見る機会がないかもしれない映画を。こうした配慮のなさをこそ「鈍感」と言うのだろう。きっと、映画において音楽の影響なんて大したことはない、と企画側は心の底では思っているのに違いない。音楽を重視しているから生演奏をつけるのではない、むしろその逆だからこそこうした振る舞いができる。

 さて、今回のサイレントは生演奏なしではほとんど上映されなかったと書いたが、唯一の例外が『裁かるるジャンヌ』で、この作品だけは朝日ホールではピアノ付きで、ユーロスペースではピアノなしで上映された。この両方の形態を体験した方は、おそらく音楽のあるなしによる落差を生々しく体験できたに違いない。とはいえ僕はピアノ付きの方は行けなかったので、比較の機会は逃してしまったのだが。朝日ホールの方はフィルムセンターとは別のピアニストだったとはいえ、もしニール・ブランド同様「いわゆるサイレントにつける音楽」だったとしたら、それをあの『裁かるるジャンヌ』につけてしまうとどうなるか、想像するだに恐ろしい。かえって、怖いもの見たさ/あるいはギャグとして体験してみたかった気がしなくもない。

 今回言いたかったことはここまでで尽きているが、それにしてもサイレント映画につける音楽についてはまだまだいろんな可能性があるのはたしかだろう。この話を巡っては、だいぶ前に別のところで少し書いたことがあるが、現在のように映写室と上映会場が区切られていなかった昔、映写機の回る音があまりにうるさいので、そのノイズを少しでも紛らわすための苦肉の策として音楽が演奏され始めた、という話もある。無音の映像にライヴ性が付加されることで、いまこことしてのリアリティは増し、現在に至るもサイレント映画の生演奏や弁士つき上映は廃れることはない。それはそれでいいのだが、その場合の比重は映画そのものよりも音楽家や弁士のパフォーマンス性の側にかかっている。単にサイレント映画を見に来た観客は、いや、自分の一番の関心は映画にある、と思っているかもしれないが、音楽や弁士によってその体験は決定的にコントロールされるということはおそらくさほど自覚していないように思う。サイレント時代当時は作品としての純粋な映画、という認識はなかったから、興行主が勝手に音でも何でもつけてそれで問題なかっただろうが、現在は映画は作品でもあり、作品だけでもないという複数の立場を同時に生きている。それならば、どの立場からでもアプローチできるよう、複数の選択の余地を残しておくのが吉ということだろう。

(c) 2004 Haruyuki SUZUKI

Misc Review - 『裁かるるジャンヌ』演奏付上映(音楽:鈴木治行)
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