『裁かるるジャンヌ』演奏付上映(音楽:鈴木治行) |
野々村 禎彦 |
『裁かるるジャンヌ』(1927)は、カール・ドライヤーのサイレント時代の総決算となった、映画史上でも重要な位置を占める作品である。ドライヤーはトーキー時代にも数本の秀作を撮っているが、そこではセリフも音楽も極めて少なく、監督の意図通りに映像に沈黙を寄り添わせるためにトーキーというシステムを用いたのではないか、とすら思わせるサウンドトラックを伴っていた。このような志向を持つ監督のサイレント映画に、クラシック音楽のクリシェで音空間を埋め尽くしたような伴奏音楽を付けても失敗に終わることは、本サイトで鈴木が論じた通りである。だが、今回のドライヤー作品上映会ではオープニングの演目として『ジャンヌ』の演奏付上映が企画され、鈴木に白羽の矢が立った。彼は既にムルナウ『ノスフェラトゥ』に電子音のみで音楽を付けており、限られた予算の中でサイレント映画の名作に現代的な音楽を付ける能力は実証済み。問題は、今回の対象の前作以上のハードルの高さだった。ここで映画の紹介に移るのがレビューの常道だが、かくも高名な作品の情報はウェブ上で十分得られるはずなので本稿では省略し、対象は鈴木の音楽に絞りたい。
今回の音楽の基調にあるのは、プリントの古いトーキー映画で馴染み深い、サウンドトラックの傷に由来する「プツッ」というノイズ。映像自体のテンションが高いので、これだけで十分間が持つ。さらに加わるのが、まず即物的なサンプリング音。裁判記録の頁をめくる映像には紙をめくる音、炎の映像には薪がはぜる音、という具合。映像と具体音のタイミングのずれ具合は、実際には『ノスフェラトゥ』と同程度だが、今回の方が映像と一致しているように感じられた。前作は怪物の侵入で現実が歪められる様子を描くため、現実は確固と提示され、音響とのずれが強く意識されたのに対し、本作では現実は高度に抽象化されており、既にイデアの束と化した映像は「ずれ」を意識させない。サンプリング音(あるいは、それを加工したサウンド)はハードディスクレコーダーに蓄えられ、シーンごとに呼び出して被せていく(正確な頭出しが求められる箇所では、CD-Rに焼いた音源のCD-Jプレイヤーによる再生も併用)。映写機の映写速度のばらつきに対処する現実的な手法だが、再演時の映写速度の変更も考慮に入れているのだろう。この日の上映はトーキー標準の1秒24コマで行われたが、サイレント標準の1秒20コマでも素材の1ブロックを長めに流すだけで対応できる。
電子音として主に用いられるのは正弦波発振音。審問官たちがトリッキーな尋問で彼女を罠にかけようとする場面では、可聴域ぎりぎりの高周波を鳴らして場の空気を緊張させ、審問官たちが口々に彼女を責める場面では、低音域を変調してノイズの帯を作る。業を煮やした審問官たちが彼女を拷問室に連行し、一面に棘の付いたローラーの回転を速めて彼女を脅す場面での、金属ノイズの音量を上げながら重ねたパルスを加速していくサウンドは圧巻。発振音はその場で発振器を用いて作るので、ハードディスクレコーダーの音響と重ねることもできる。また、具体音と電子音を混合した音響も素材として準備されている。典型例としては、彼女の宗教的な感情が高まった場面で流れるJ.S.バッハ《ヨハネ受難曲》や、彼女が火刑場に姿を見せた際の民衆のざわめきが挙げられる。これらの強い意味性を持った音響はホワイトノイズで覆われ、辛うじて聴き分けられる程度の状態で流される。鈴木は《ヨハネ》を音響記号として用いるが、これは映画における記号化されたキリスト教の描写――窓枠の影が十字架の形に床に映るのを見てジャンヌは微笑むが、邪悪な裁判長が踏んだ途端にその影は消えてしまう、というような――に対応している。
これらのPAを通したサウンドに加え、ステージでは大太鼓と2枚のドラが鳴らされる。大太鼓は鈴木、ドラは画面左右の助演者(プロ演奏家ではないという)が1枚ずつ担当し、左のドラは主に弓弾き、右のドラは撥で叩き、大太鼓はミキサー操作の合間に後ろ手で叩く。筆者は、ドラの弓弾きはサスペンス、撥で叩くドラはショックの感情、大太鼓は運命の歯車の進行という通俗的な対応関係を前提に聴いていたが、一部の具体音のように映像にタイミングを合わせて音を付けているわけではなく、それが鈴木の意図だとは言い切れない。情緒的な解釈を拒絶する厳しい映像が喚起する原初的な情動を、非周期性や間欠性を旨とする打楽器の選択に投影していただけなのかもしれない。そして、雲霞のごとき民衆が軍を圧倒する様子と焼け落ちていくジャンヌの亡骸がエイゼンシュテインばりにモンタージュされる最後の蜂起の場面(注1)では、どこまでもクレシェンドする持続電子音にすべての打楽器が被さり、映像に匹敵するクライマックスが築かれる。
サイレント映画に音楽を付ける企画の対象になるのは名画に限られるだけに、音楽は無くもがなに終わることが多く、音楽はあってもなくても同じだと思えたら上出来の部類とすら言える。数少ない成功例に共通しているのは、サウンドトラック抜きで成立している映像に込められたエネルギーを受け止め、その可能性を引き出す音楽を追求する姿勢である。そうして付けられた音楽は、映画が娯楽商品として消費されることを前提にした伝統的な伴奏音楽とはおのずと異質なものになる。原初的な情動を直接刺激する映像に釣り合う素材として、器楽作品における自らの志向とは全く異質なサンプリング音とノイジーな発振音と打楽器の衝撃音(注2)を選び、映像の振幅に呼応して限界を超えて高揚する今回の鈴木の音楽が、稀有な成功例に属しているのは疑いない。『ノスフェラトゥ』ともども、再演やDVD化を望みたいところだが、こうなると逆に興味深いのは、伝統的な伴奏音楽が矛盾なく馴染むような情緒的なサイレント映画に、彼がどのような音楽を付けるかである。
(2005年1月29日 多摩センター・パルテノン多摩小ホール)
(注1) 1985年に発見されたオリジナル版による上映。それまで流布していた版とはさまざまな異動があるが、最大の違いはこのラスト。ジャンヌの死は終わりではなく始まりだった。
(注2) しかし、鈴木の作品表の半分近くを占めるテープ音楽を知る者にとっては、このような素材は決して「彼らしからぬ」ものではない。むしろ、メディアに応じてスタイルを自在に変えられるのが「鈴木らしさ」である。
(c) 2005 Yoshihiko NONOMURA