カーゲルの映画

足立 智美

 ケルンで10月に《Match》と《Zwei-mann Orchester》、12月に《Antithese》, 《Le Chien Andalou + Szenario》, 《MM51》, 《MM51 + Nosferatu》, 《Bestiarium》, 《Hallelujah》, 《Blue'e Blue》と、マウリチオ・カーゲルの(及び関連する)9本の映画を見る機会があった。おそらくこれで《Ludwig van》を除くカーゲルの映画の主なものを見たことになるだろう。音楽と映像の関係を考える上で外すことのできないと思われるこれらの映画に関する日本語の情報は少ないと思われるのでレポートしよう。


 まず10月26日にケルンのGalerie Rachel HaferkampでNPO、Freies Rheinlandの企画した"Korona//neue Musik und experimentelle Musikproject"の一日、"Electro-akustische Kompositionen aus Argentinien für Tonband + Experimentalle Filme von Mauricio Kagel"から(ちなみに筆者、刀根康尚YUI Mikiによるパフォーマンスも同じシリーズ)。

 タイトルにあるように前半にはアルゼンチンの近年の電子音楽がテープ演奏されたが、筆者にはあまりに常套的なアカデミズムに思えたのでここでは取り上げない。後半最初は《Match》(マッチ)(1964/白黒)。2人のチェロ奏者(ジークフリート・パルム、Klaus Storck)と打楽器奏者(クリストフ・カスケル)が出演。チェロ奏者を選手、打楽器奏者を審判にみたてた「試合」。曲は特殊奏法を駆使した2本のチェロの音の応酬を打楽器が整序し、時に攪乱しながら進行していく。映像は演奏だけを映していくのだが、3人が演奏する全体像を示すことはほとんどなく、チェロや奏者の額のアップなど局所拡大が多用される。印象的なのは被写体の回転とカメラの直線的な移動である。また実際の舞台ではありえないことだが、楽器、特にヴィブラホーンやスネア・ドラムなど打楽器が奏者の脇をするすると通り抜けていくシーンが面白い。カットの切り替えは極めて頻繁であり、ほぼ等速でスクリーンを流れる被写体と相まって、よどみない視覚的印象を与える。別にテレビ中継を模しているとも思えないので、それが「試合」というコンセプトとどう関係づけられるかは分からないが、音楽の流れを非常にスムーズに見せているのは間違いない。もっとも一番忘れがたいのは打楽器奏者の行き過ぎた生真面目か、あるいは狂気のようなビヘイヴィアであって一向にわざとらしくないところが不思議である。しかし現在ケルンの音楽大学で教鞭を執るカスケルは授業の時もとても変な人だそうである。

 《Zwei-mann Orchester》(2人オーケストラ)(1973/カラー)は最終的に私の見たカーゲルの映画の中の間違いなく最高傑作であると思う。この作品のレコーディングもあるが、はっきりいってこれは視覚的な要素がないとまったく意味をなさない。私はカーゲルの作品のもつ、現代音楽やアカデミズムの制度を裏返しただけのようなエキセントリズムをあまり好まないが、この《Zwei-mann Orchester》ではオーケストラという参照項はあるものの、西洋近代音楽というせせこましい伝統ではなく、より普遍的な人間の身体の持つ制度と可能性を探っているように思える。このフィルムは最初のショットから度肝を抜く。画面に映っているのはゆうに二部屋分くらいありそうな二人用の巨大な音楽機械であって、それだけでもはや呆れるしかない(実際、映画が始まった瞬間、観客はどよめいた)。2人の奏者が向かい合った状態で着席し、一定位置からすべての音具を操る。チューバやフィドル、バスドラムのような通常の楽器もあるにはあるが、大概は改造され、また遠隔操作で音が出るようになっている。例えば綱を引くと遠くにある揺りかごが揺れ、上に乗ったバスドラムとバチが揺れて音を出すといった具合である。打楽器を中心に百近い音具があるとは思われるが、ふいごや鍵盤、モーター、そして膨大な糸を使った遠隔操作のシステムがその作品の中核を成している。それは楽器の集合体としてのオーケストラのアレゴリーであると同時に、体が物に触れて音を出すというプロセスの文字通りの異化である。単純に西洋音楽の伝統を扱ったものとはいえないことをカーゲル自身が意識している証拠に、奏者は《Match》と異なり燕尾服ではなく普段着を着ている。それはまた西洋から見た非西洋を主題にした《エキゾチカ》とも違う。奏者は次から次とその音具を鳴らしていくのだが、カメラは音を出すアクションとその音が出るまでのプロセスを丹念に追う。決して精緻に作られた機械ではなく(その素材の多くは木である)、ところどころ不安になるほどいい加減な仕組みであるため、観る者はかえってドラマティックな快感を味わう。時に性器の勃起や乳房のような性的な隠喩が顕れる。この作品は何度かコンサートもおこなわれているはずだが、この作品はコンサートという制度とも関係ないからディテールを見るにはフィルムが一番ではないだろうか。ちなみにその後、この音楽機械は楽器の収集で有名なデン・ハーグ市立美術館(Haags Gemeentemuseum)に所蔵展示されているのを発見した。展示室内では常時フィルムが上映されているようである。


 さて12月の上映はケルンの現代美術館ミュゼウム・ルードウィッヒのキノ・ザールにてKGNM(ケルン新音楽協会)主催、《tonspuren》(サウンドトラック)。01と番号が打たれているからこのタイトルでシリーズ化されるのだろう。ちなみにKGNMは美術館、ライヴハウスなどさまざまな会場との共催による現代音楽のコンサート、レクチャーの他、オーケストラによる現代音楽演奏から実験音楽、フリージャズに近い領域までをカヴァーしたneue musikという無料カレンダーを隔月で発行している。

 この日の1本目は《Antithese》(アンチテーゼ、1人の俳優と電子音響、環境音のための劇)(1965/白黒)。前述した2本の映画はもっぱら演奏風景を収めていたが、この電子音楽を伴った作品はまったくのフィクション映画。といっても別にストーリーがあるわけではない。白衣を着た科学者(Alfred Feussner)がテレビ受像器、スピーカー、計測器、ケーブルがぎっしり詰まった部屋の中でテレビをつける。その中には彼自身が映っている、というメタフィクションの仕掛けから始まり、彼が室内の巨大な電子マシーンと格闘する。乱雑な機械のたたずまいは《Zwei-mann Orchester》と似ている。その光景に対し電子音はほとんどBGMのようで、電子音楽制作風景のパロディーのようにも見える。科学者は間の抜けた格闘を繰り返すが、彼の動きと密接に関わっているのはときどき挿入される環境音の方で、例えば送水パイプのようなものを外すと水は見えないが水があふれる音が聞こえる、という仕組みになっている。電子音は時に環境音に寄り添うことで、映像、電子音、環境音は統合された知覚を与える。そのうち科学者はテレビを破壊し大洋にこぎ出し、テープの山に埋もれる。イメージの転換やコラージュはかなりトリッキーであり、影の扱い方も含めて第二次大戦前の表現主義映画、シュールレアリズム映画の極めて強い影響がみてとれる。ただ、手間はかかっているものの技術的にあまりうまくなく、シュールレアルというより単なる混乱でアマチュア臭さは否めない。

 《Le Chien Andalou》(1983年製作)はブニュエルダリの傑作サイレント映画《アンダルシアの犬》(1928)にカーゲルの《弦楽オーケストラとテープのためのシナリオ》をサウンドトラックとしてつけたもの。オスティナートを多用した表現主義風の音楽は、映画にマッチしていたというより無闇に不安を煽るように機能していたように思う。それを異化といえるかどうか。ただどことなくスペイン風のフレーズと、テープによる奇妙な犬の鳴き声は、アンダルシアを舞台にしたともいえないし犬も出てこない映画にアクセントをつけていた。

 次は《MM51》(1976)二題。「メトロノームとピアノのためのフィルム・ミュージック」の副題を持つ作品を題材に2つの異なったアプローチ。メトロノームの音は石畳を歩く足音を想起させ、それだけで表現主義映画にふさわしい題材である。そこにこれまた表現主義風のフレーズとピアニストの笑い声が絡む。ひとつめの《MM51》(1976/白黒)ではグランドピアノを前に座った燕尾服のピアニスト(アロイス・コンタルスキー)と遠隔操作で角度を変えられる台に載せたメトロノームをカメラは執拗に舐め回す。ときにカメラはピアノ越しの禿頭をひたすら写す。ここでも影の扱い方は表現主義風だが、対象の演奏風景は表現主義的主題ではないので、むしろ撮影技法のパロディーのようにみえる。2つ目の《MM51》(1981/白黒)(タイトルロールは先と同一)はムルナウの映画《ノスフェラトゥ》(1921)のコラージュをあわせたもの。ピアノは蝋燭を立てたアップライトに、コンタルスキーの服装はベレー帽に丸眼鏡、戦前の事務員風に代わっている。そのコンタルスキーが演奏しながらピアノ越しにノスフェラトゥを見るという趣向。ノスフェラトゥが船に乗ってから日の出に出会うまでを、ほぼ時系列に沿って主要なシーンを抜粋してある。特に曲の進行に合わせてコラージュされたとも思えず、ピアノ演奏の場面も適時挿入されるので、聴覚による映画と視覚による映画を同時に見ているような状態に置かれる。

 《Bestiarium》(2000/カラー)は「獣の館」とでも訳せばいいのだろうか。「動物園」とはニュアンスが違うようだ。副題が「2つの舞台で演じられる音の寓話」。ケルン近郊の小都市クレフェルドのTOM Theaterとのコラボレーションで、クレジットから推測すると1976年に作られた舞台作品を2000年に映像化したものと思われる。舞台幕の間からゴム手袋が出てきてドライヤーの風でにゅーとふくれる冒頭から、カーゲルの寸劇集《国立劇場》を想起させる。基本的には動物の人形が膨らんだり倒れたり回転するというだけの演劇。時に間合いも絶妙で大変面白い。動物の鳴き声のようであり、電子音のようである音が始終鳴り響いており、たまに動物の動きにシンクロする。

 このあと、休憩を挟んでカーゲルの30分ほどのレクチャーがあり、作品の背景などを順に語っていたが、ドイツ語のためフォローできず。

 後半は30分を越す大作2つ。《Hallelijah》(1969/白黒)は1968年の同名曲のシュトゥットガルト・スコラ・カントルムとチューリッヒ室内合唱団による演奏を映像化したものと大雑把にはいえるだろうと思う。原曲の記憶が曖昧なため確実なことはいえないのだが、原曲に様々な要素を付加しているようだ。冒頭は発声法の学習フィルムのパロディとなっており、異常にちゃちくさい模型を使って正しい発声が指南される。その後奇声を挙げる合唱団のシーンが続く。舞台上らしきところでまともに演奏している場面もあるのだが、床をはいずり回ったりなかなか大変な状況を強いられているようだ。発声体操のシーンなどもコラージュされつつ、中盤からはオルガン奏者ゲルト・ザッハーが朝起きてオルガンを弾きに出ていくまでのシーンが挿入される。ザッハーがオルガンで弾いているのは《ハレルヤ》の一部とは思えないので、別のオルガンソロの作品だろうと思う。鍵盤上にまるでダンスするように手が這い回り、クラスターをまき散らす非常に面白い曲である。曲の《ハレルヤ》自体はおそらく宗教曲の異化という含意があると思われるが、フィルムから感じられるのはむしろ原曲のさらなる異化、あるいは解体である。全体のイメージの持つ振幅は極めて大きく、ダダイスティックな無意味さに達しているが、音楽の《ハレルヤ》の連続がかろうじてひとつのテンションを持続させている。

 最後の《Blue's Blue》(1981/白黒)も1978-79年の同名曲の映像化。最初に19世紀末から20世紀初めにかけてニューオリンズで活動した黒人コルネット奏者/ブルース歌手のジョン・ブルーの簡単な伝記が語られる。そのあとシーンはアメリカ中西部の都市郊外を思わせる薄汚い部屋に4人の男達がごろごろする様子に移る。ターンテーブルにはジョン・ブルーのレコードがかけられており、労働者風の服装をした男達は興が乗ると楽器を手に演奏に加わる。男達とはジャン・フランソワ・ジェニー・クラークミシェル・ポルタルテオドール・ロス、そしてマウリチオ・カーゲルの4人であって、カーゲル以外はヨーロッパの現代音楽の文脈で活動しつつジャズの演奏もできるミュージシャンを集めた格好になっている。またこのメンバーは最初の《エキゾチカ》の録音メンバーとも重複している。前半のうちはソロでジョン・ブルーの歌にデキシーともモダンともつかないスタイルで音を絡める。終盤に一度だけ全員の合奏になって ちょっとだけ熱い演奏を繰り広げる。カーゲルがそれまでウィスキーをかたむけていたグラスを口にあてがって演奏するスキャットは素晴らしい。といっても 演奏はあくまでスイング感の希薄なヨーロッパ風のジャズで、それをアメリカの風景の中で演奏するという屈折した態度は最後まで崩れない。その距離感は彼らが《エキゾチカ》の録音でみせた態度と似ている。また盛り上がった瞬間に窓の外を電車が通り過ぎるなど映画独特の演出も効いている。フィルムでは最後まで明かされないが、ジョン・ブルーとは架空の人物であってレコードの歌もカーゲル自身によるものである。実際のところまったくブルース風の声で、思いがけないカーゲルの才能には驚かされるが、奇妙な進行や抑揚はやはり独特のものである。


 カーゲルの作品について語ろうとすればどうしても異化という概念に触れざるをえないのだが、フィルム作品に関してはどうだろうか。いってみればフィルムとサウンドトラックが互いに距離感をもたらすように機能するのが映画と音楽における異化なのかもしれないが、カーゲルのフィルム作品においては特定の様式、特に戦前のシュルレアリズム/表現主義映画に対する偏愛が異化作用を上回っているように思われる。多くのカーゲルの音楽作品がそうであるように異化の対象をヨーロッパのブルジョワ文化に限定するならば、そもそも20世紀の大衆芸術の申し子たる映画というメディアにはあてはめにくい。ここではどうしてもベンヤミンを招喚したくなるというものであろう。異化の概念が本来持っていた資本主義的疎外の止揚という役目を、今有効に発揮できると私自身は思わないが、カーゲルの音楽作品とは異なり、映画作品の方にはアドルノ主義的態度から異化の概念を解放する契機があるのかもしれない。

(c) 2005 ADACHI Tomomi
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