こうの史代:長い道 (双葉社, ISBN: 4-575-93962-5)

野々村 禎彦

 まず本作は、個々の描写に曖昧な点はないにもかかわらず本質的に多義的な読解が可能な(例えば、永瀬恭一氏のレビュー紙屋氏のレビューを比較されたい)、マンガとしては稀有な「純文学的」作品であるが(注1)、本稿はこの点にはあえて触れない。本作は「Jour すてきな主婦たち」誌に、2001年3月号から2004年12月号にかけて連載された。「YOU」誌や「BE LOVE」誌と並ぶ、エロやメロドラマへの依存度の低いレディースコミック誌のひとつであり、こうの作品にふさわしい媒体だった。老松荘介と天堂(旧姓)道(注2)の結婚生活が、毎回3〜4頁で淡々と描かれてゆく。父親同士がが酒の勢いで決めた結婚だけに、ふたりの間に恋愛感情はなく、結婚から1年が過ぎても「セックスですか? していません!」 仕事が長続きせず女遊びが大好きな荘介は、隙あらば道を売ったり質に入れたりして遊ぶ金の足しにしようとする。荘介の父もこの親にしてこの子ありで、久々に帰省した息子夫婦に向かって、「しかしあん時ゃがっかりしたなー てっきり遊さん(道の姉:荘介好みの勝気な美人)がヨメに来るとばかり思ってたから」と無神経に言い放つ。だが、世話女房タイプの道も「耐える妻」ではない。同じ町内に住んでいる元彼の竹林賢二に今でも惹かれていることを荘介に隠そうとはしないし、幼馴染の御曹司から見合い話が来たので離婚して会ってみないか、という母の誘いに乗って(荘介もその場ではそそのかしたのだが)一度は離婚届を渡している。

 このように状況だけ列挙していると何やら殺伐とした話に見えてしまうが、どの回もほのぼのとした雰囲気のギャグマンガとしてまとまっている。二階堂正宏『極楽町一丁目』や業田義家『自虐の詩』のような、殺伐さや悲惨さが突き抜けてギャグに昇華された笑いではなく、しっかりオチがついた笑い。浮気も見合いもうまくいかず、毎回元の鞘に戻るべくして戻る。キャラクターの魅力で笑いが取れた『こっこさん』と比べても、どの話も作り込まれている。前の回で人類が滅亡しても、次の回は何事もなかったかのように始められるのがギャグマンガの良さだが、リアリズムに束縛されないメリットは本作でも活かされている。連載2年目の後半は特に話が大きくなっていた時期で、道が海水浴場でボートを借りて昼寝しているうちに無人島に漂着する「老松道漂流記」、道が宝クジで当てた百万円を元手にギャンブルで勝ちまくって大金持ちになる「拡散」と、その生活にも飽きて一文無しで元の暮らしに戻る「収縮」の二話一組の話など。『街角花だより』から『こっこさん』まで、一貫して市井の生活の断片のみを描き続けてきた彼女にとって、このような話の広がりは飛躍とも言えるが、変化の背景は別にあった。

 ここで1回の頁数の変遷を見ると、最初の2年は1回3頁、3年目の2月号(バレンタインデーの話)から1回4頁になっている。雑誌の割付としては偶数頁が標準で、3頁なのは1頁が広告ということだが、彼女は1回を3頁にまとめるのは苦手で、「いつかおカネ持ちになったら、広告の頁を買って4頁にしてやろう」と思っていたほどだった(注3)。3頁時代は、ひとつのアイディアをいかに膨らませ、きれいにオチをつけるかに全力が注がれていた。後期に話のスケールが大きくなったのは、日常生活の範囲ではネタに行き詰まったからではないか。また、1回3頁の場合、掲載誌での見開き左右は広告の都合で決まり、入稿時点では決まっていない。この時代の作品は毎回左右入れ子に収録されているが、これは各頁ごとに完結する構成だからこそ可能な処理だ。掲載誌の版型変更に伴って1回4頁になると作風も変化し、与えられたスペースにいかに絵を配分するかが主なテーマになった。例えば、道が離婚届を渡して見合いをする「なごり雪」では、3頁目の別れの挨拶の次のコマから一頁を2段に割り、道と荘介の仕草や表情の変化を左右で対比する。最終頁は2段割の右1段抜きで、降り始めた雪の中に感傷的に座り込む荘介の全身を、街を行く人々と一緒に見せる。このコマ割りが有効なのは、3頁目と4頁目が見開きになることを前提に、荘介中心のコマを見開き中央部に固め、意識の流れを描いた大きな1コマとして機能させているからである。ストーリーを離れて絵を操作する余裕が作品に新たな局面を開いた。

 各回の完成度や実験性にとどまらず、単行本全体に及ぶ大きな流れが作られているところも本作の大きな魅力だ。いわゆる「大河4コマ」のように、本来はストーリーマンガ向きの話を湿っぽくならないようにあえて超短編に細分化するのではなく、なんということのない日常の繰り返しのようでいて、いつの間にか後戻りできない変化が起こっている。一つ目は、はじめはお互いの都合だけで同居していたふたりが、しだいに情を通わせて夫婦らしくなってゆく流れ。結婚後2年目の元旦を迎えても、「今日ぐらいはこういう殺風景な女は見ずにすまそう」と家を空けていた荘介が、連載終了が近づくにつれて、何かにつけて道をハグするようになり、実質的な最終回では、彼女を抱き寄せてキスしてから、「今さらイヤだって言っても おれもう別れてやんないかもよ」と、初めて愛を告げる。この実質的な最終回は、単行本化時に並べ替えることを前提に(同人作家出身の彼女は、商業出版されなかった雑誌掲載作をしばしば自費出版してきた)3頁時代に増刊号で描いておいたという(注4)。1月号ならば初詣や初夢、7月号ならば七夕というように連載では特定の日や月を反映したネタが多く、単行本収録順は雑誌掲載順を踏襲せざるを得ないが、3頁時代に(注5)増刊号で描いた4頁物は筆のタッチを活かした幻想的なサイレントマンガが中心で、季節以上のものは描かれていないので収録順は多少は融通が利く。この単行本では、これらをふたりの関係が進展する出来事が起こる前後に挿入し、流れにリズムを作っている。具体的には、道が元彼と再会する回の前(この回は3頁:滝田ゆうのサイレントマンガにならった吹き出しを多用した、本作の発想の源泉へのオマージュ)、荘介が風邪の道を看病する回の後、ふたりが初めてセックスする回の前、荘介が初めて道の身体を思いやる回の前。

 もうひとつの流れは、道と竹林の関係をめぐる状況の変化。道が荘介と秋祭りに出かけた時、彼女は初めて竹林と再会する。数ヶ月後、道が風邪でうなされている時に「竹林どの」と呟く様子を目の当たりにして、荘介も読者も、ふたりが過去にただならぬ関係にあったことを知る(秋祭りの場面だけでは、片思いしていた先輩程度にしか見えないが)。その半年後、荘介が七夕の短冊に「女よこせ」と書いているのを見た道は「叶うといいですねえ……シアワセになったかなあと心配しなくてすむもの 竹林どのの時みたいに」と意味深な言葉を残す。そのさらに1年後、道と荘介は雨の中で傘を取り合ってケンカするが、柄に「竹林」と書いてあるのを目ざとく見つけた荘介は、「お前 竹林賢二がこの辺に住んでんの 本当は知ってたんじゃねえの? だからうちに来たんだろ?」 とからかう。すると道は雨に濡れながら「そうよ」と、『夕凪の街 桜の国』で皆実や七波が見せた、あの決意の表情で一言。誰と話す時にもですます調を貫いてきた彼女の、ただ一度の逸脱。その気魄に圧倒される荘介。道と竹林の別れは、単なる失恋ではなかった。竹林の両親がふたりの結婚に強硬に反対し、意に反して別れさせられたのだった。その竹林から、小学生の娘(注6)を持つ女性との結婚を考えており、「案の定大反対されたけど あの時でもう慣れてるしな」と決意のほどを聞いた道は「わたしもシアワセになってもいいのですよね?」 と駆けてゆく。道と竹林の関係の核心を描いたこの「道草」は、見開きページなど大ゴマを多用した14頁の回で、まず描き下ろし同人誌として刊行された。その際に併録されたのは、筆タッチのサイレントマンガの端緒である描き下ろしの「蜜柑の国」(注7)と、竹林の新しい恋を道が温かく見守る、増刊号の4頁物「昔の人」。

 この同人誌が発行されたのは連載2年目の3月、「竹林どの」の回と「シアワセになったかなあと……」の回の雑誌掲載の中間だが、この一連の同人誌収録作が挿入される箇所は単行本では終盤、荘介の道への思いが深まってゆく直前である。これらのエピソードのしばらく後に荘介は、8年ごとに現れる運命の女性と再び出会い、「ごめん 道 今度は ほんとにしばらく戻らないと思う」と告げて去るが、これもそれまでの彼と比べたら随分な違いだ。これらのエピソードの直前までの荘介は、フラッと出かけて浮気して「おれがカネ持ってりゃここに戻ってくる思うか!?」 と開き直るような男だった。いまや彼は、働く道の後ろ姿を一目見た途端、運命の女性を捨てて彼女の元に戻ってくる。相手の親の強い反対で恋を諦めて以来、自らに幸せを禁じていた彼女にとって、少なくとも親同士は認めている見知らぬ相手との結婚は、過去に囚われて無為の日々を過ごすよりは心休まるものだったのだろう。キャリア志向の姉の遊は、荘介がろくでなしだと知ってからも妹の結婚を祝福しているのだから。そんな道だけに、幸せになることを自らに許すやいなや、ささやかな幸せが訪れる。荘介も自らに注がれる愛には敏感であり、道の変化を受け入れて彼女に愛を注ぐようになった。ふたりはあくまで対等なのだ。実質的な最終回の次が、やや後日談的な雑誌連載時の最終回。安定した日常の中、竹林から結婚を知らせるハガキが届き、もうひとつの流れも閉じられる。

 くらもちふさこα』もそうだったが、雑誌連載時の佇まいからは想像できないような壮大な全体像が、単行本化で一挙に浮かび上がってくるマンガは実にスリリングだ。たとえリアルタイムで読んでいなくても、その熱気は絵柄の微妙なゆらぎから追体験できる。こうのも本作には思い入れが深く、あとがきでは「いまここまで読んで下さった貴方は、たぶんわたしがまんがを描き始めて以来、ずっと待ち続けていた読者さんです」とまで書いている。高校の化学部時代の友人たちが新居を訪ねてきた時、ビーカーやフラスコで茶を出すエピソードも自伝的であり(注8)、あとがきにパートナーへの呼びかけが入っているのもうなずける。本作刊行に合わせたYahoo!ブックスでのインタビューで彼女は、「夫婦もの」という枠がないに等しい制約のもとで、考え得る限りの物語のパターンを試した実験作と本作を位置付け、「これから何年かマンガを描いていくとして、それはこの『長い道』の中の、どれかのパターンにのっとったものなんだろうな」と語っている。だが、現在「漫画アクション」誌で連載されている『さんさん録』は、『長い道』で提示されたパターンにはない展開で埋め尽くされており、彼女の発想はまだまだ枯渇しそうにない。ともあれ、こうの本来の資質が遺憾なく発揮された本作は、彼女の作品の「情緒」は冷静な計算によって生み出されていることを再確認させてくれた。

(注1) 「純文学的」か否かはあくまでスタイルの問題であり、作品の優劣とは関係ない。ただし本作の「純文学性」は、題材のレベルで純文学を模倣したり、個々の描写を曖昧にして神秘性を醸し出すような水準でも、絵と言葉の落差から生まれる「内面」に依拠した24年組的なものでもなく、ストーリーの明白な亀裂や断絶も一見滑らかに接続し得る、マンガという表現様式の特質を利用したユニークなものであることは指摘しておきたい。

(注2) 『夕凪の街 桜の国』の登場人物の名前が広島市の地名で統一されていたように、本作の登場人物の名前は道家思想で統一されている

(注3) 本作あとがき参照。

(注4) Yahoo!ブックスでのインタビュー参照。

(注5) このようなサイレントマンガは、4頁時代にも何度か描かれているが、両者は絵柄の違いで見分けられる。道の顔で言えば、斜めから描いた時、白目の下側のラインが上側と同じ時くらい長いのが3頁時代、黒目のすぐ脇で止まるのが4頁時代。本作開始時点では連載を終えていた『こっこさん』の登場人物のアイラインは軒並み本作4頁時代のものであり、これは絵柄の経年変化ではない。3頁時代の彼女は、意識的に「昔風の絵」を描こうとしていたと捉えるべきだろう。

(注6) 『こっこさん』の主要サブキャラ「チクリン」。ちなみに「あの決意の表情」の原型は、彼女が母の再婚を受け入れる瞬間である。

(注7) 本作に収録されているのは、「月刊まんがタウン」誌2005年4月号掲載時に彩色されたヴァージョン。

(注8) 脈絡のない設定を唐突に放り出す描写の異質さは、そのように考えないと理解できない。ただしこの設定は後に、家計が逼迫してガスも電気も止められた時、アルコールランプと三脚で食事を作るという形で生かされる。

(c) 2005 Yoshihiko NONOMURA

→ [Misc Review] こうの史代:夕凪の街 桜の国
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