Out The Window |
足立 智美 |
壁際におかれた白い箱、白い縁取りに水槽を泳ぐ魚や室内の光景を映す鏡が映写される。そこまでは虚像と実像というありふれた仕掛けだ。突然、プロジェクターの前を人が横切る影。と思いきや、それも映写された虚像だった。やられた! このアイデアは見たことがない。だがキム・チャンギョム(Kim Changkyum)はそれだけでは終わらないのだ。楽屋(これは実像)の壁に映し出される映像に身を浸していると、そこから現れるのは視覚のトリックなどではさらさらなく、むしろ親密でプライヴェートな空間だったりする。シミュラクル社会を批判するように見せかけて、そこから映像はすり抜けてしまう。では映像は何を映しているのだろうか? そう考えると頭脳と身体はクラクラするような迷宮に連れ去られてしまう。
李振華、ソ・ジンソク、住友文彦の3人のキュレーターが中、韓、日の3国から12人のインスタレーションと45人のシングル・チャンネル・ヴィデオをセレクトしておこなわれた展覧会、≪アウト・ザ・ウィンドウ≫は主にヴィデオ表現に焦点をあてており、アジアという枠組みを問いかけると同時に、既に40年近い歴史を持つこのメディアの可能性と危うさを明るみに出している。
この展覧会では12人のインスタレーション作家中、9人がヴィデオを用いている。ヴィデオ・インスタレーションというスタイルでは身近な生活空間における虚像と実像という問題提起に偏りがちだ。最初に述べたキム・チャンギョムの作品はその傾向をさらにメタ化したような優れた作品だが、この展覧会でもうひとつはっきり打ち出されていたのはメディアを介した身体の変容という方向性だったように思う。例えばユ・ヒョンジュン(Yu Hyongjun)の≪Who am I?≫と題されたマルチ・プロジェクションのインスタレーションでは、モノクロームの裸体があり得ない変容、分裂を繰り返す。しかし強烈な美意識に裏打ちされた映像は、むしろある種自然で日常とは異なる身体のあり方を提示しているようだ。あるいは印刷、放送、電子メディアに氾濫する身体イメージを鮮やかに饒舌に切り取った笹口数。また
田中功起のグラスの底でひたすら転がり続けるサイコロのヴィデオは、無機質な反復から肉質のリズムが立ち上ってくる。理不尽でユーモラスな動きがそうさせるのだろうか。これは田中のいつものスタイルだが、今回はこれに加え小型モニターで水面を延々映し、数十分に一度水鳥が横切るという反復ヴィデオも出品。会場の隅々にモニターを散らすというアイデアと相まって、思いもかけぬ深度を展覧会にもたらしている。
ヴィデオ・インスタレーションは現代美術の流行であり、大型展ではあまりのヴィデオ・ブースの多さに辟易してしまうこともしばしば。しかしこの展覧会では、決して大きくない会場を隅々、楽屋内まで用いて、個々の作品が適度に分離、浸透して決して飽きさせない構成になっていた。 このことは高く評価しておきたい。
しかしここで思うのはヴィデオ・インスタレーションにおける時間とは常に反復であるという事実だ。ヴィデオは技術的にはループで映写されるしかないから当然のことなのだが、別のいいかたをすると、そこにはタイム・ベースのコンポジションが欠けているということでもある。DVDで鑑賞されるシングル・チャンネルのヴィデオ作品にその問題は如実に現れていたように思う。なにぶん45人の作家のDVD4枚に亙る量なのですべてを見たわけではない。したがって個々の評は差し控えるが、作品のコンセプトと時間軸の操作が齟齬をきたしている例が多いように感じた。多くの作品が劇映画や音楽の構造を借りており映像独自のリズムや構造を生み出すには至ってない。それが作品をアイロニカルに見せ、その魅力を失わせている。韓国出身のヴィデオ・アートの創始者、ナムジュン・パイクの映像の持つ、音楽に拮抗し時に音楽を破砕してしまうようなリズムの強度は受け継がれていないようだ。
インスタレーションの質(とシングル・チャンネル・ヴィデオの量)に関していえば、キュレーターと作家の野心すらうかがわせる魅力的な展覧会だ。それを代弁していたのが鄭雲漢(Zheng Yunhan)の勇壮なマーチにのった鉱山労働者のMTV。その横では鉱山のリアルな映像。これまた虚像と実像の対比だが、MTVはそんなやわなコンセプトを一気に飛び越えてしまうほどのインパクトだ。そんな社会に私たちは生きている。芸術は社会のありさまを過激に鮮明に見せつける。
(2004年1月10日〜2月15日 赤坂・国際交流基金フォーラム)