パフォーマンスの複数次元 |
野々村 禎彦 |
かつての足立智美は、声と自作楽器の演奏に加え、ライヴ企画でも突出した存在だった。演奏会シリーズ「音、あるいは耳について」「音楽工作所」は、同時代に注目を集めるには、人選もテーマもあまりに時代を先取りしていた。やがて彼は「企画熱」というテクストで、異ジャンルの聴衆どうしの出会いに期待して企画を続けるよりも、他ジャンルの表現者とじっくり共同作業をする時間を作りたい、と企画休止宣言を行った。その後の彼の活動範囲は、ダンスの音楽、インスタレーション、ヴィデオアートなど、さらに広がった。だが本サイトでもその一端が報告されたドルトムント滞在を経て、彼は再びイヴェント企画を手がけるようになった。滞在先では仕事の一環として企画を行っていたことも大きな契機だろうが、活動範囲を広げたことで、蛸壺的な文化状況は音楽に限ったものではないと気付いたのではないだろうか。今回のパフォーマー4名の人選も、なるべく間口を広く取った結果だという。以下では登場順に、アフタートークの内容も交えつつ内容を振り返る。
足立は、「実験音楽」の極北と言うべき2作品を演奏した。「行為の不完全性」を明らかにするために、複数の行為を並列的に提示するのだという。最初は『コインの静電容量』(2006)。非楽器的な無骨な音を出す自作テルミンの側に5円玉を積んでゆき、発振音の変化を聴くコンセプト。最初は、5円玉から手を離すと音が止まってしまう地点から積み始めるが、5枚ほど積んだところで常に発振音が鳴るようになり、今度は高く積むほど発振音の音高が上がるプロセスを聴くことになる(もちろん、5円玉を積む一連の動作に応じて、音は刻々と変化する)。5円玉の山の上端がテルミンのアンテナ下端と同じ高さになった瞬間(30枚ほど積んだ時点)に音高は急上昇し、以後の音高の変化は緩やかになる。それ以降はどこで山が倒れるかに興味は移り、100枚ほど積んだところでようやく崩れた。急激な下降グリッサンドと、5円玉が床に飛び散るノイズ。5円玉を使った理由は、落下時の音が一番大きいからだという。「5円玉の表面が上になるように積む」というルールを加えて、裏返し動作の有無で積む間隔がばらつくようにしてあるのも芸が細かい。視覚的要素と音響が一体化した見事なパフォーマンスだったが、全体の時間の中で音響変化のピークが早すぎる点は改良する余地があると思う。
次は『声と赤外線センサーシャツ』(2004-06)。ドルトムント滞在中に制作した、10個の赤外線センサーを取り付けたシャツを用いて、体の動きで音響をコントロールするパフォーマンス。操作対象の音響は、ヘッドマイクでラップトップ上のDTMソフトにライヴ入力した自らの声である。金沢21世紀美術館と図音会@文京区小石川図書館に次いで、筆者にとって3回目のライヴになったが、毎回印象はあまり変わらない。シャツを広げると電子音が噴き出し、シャツを着てから声をさまざまに変調し、シャツを脱いで畳み始めると再び電子音のみになり、センサーを全部畳み込むと音が止まって終了、という大枠は変えようがない上に、わずかな動きの違いで変調結果が全く変わるようにプログラムされているため、各瞬間は予測不能でも、全体的には均質な結果になってしまう。ただし、変調の頻度は動きの程度でコントロール可能で、今回は過去で最もおとなしい演奏になったのは、以後のパフォーマンスを喰わないよう配慮したのだろう。繰り返し上演にまつわる均質さは、彼もそろそろ気になってきたという。
続いて桜井真樹子『青い比丘尼の物語』。大阪・平野の尼寺に伝えられている、地獄から蘇った青比丘尼の伝承にインスパイアされたオリジナルストーリーを、声明を交えつつ語り聞かせる。浮気に明け暮れて家に帰らなくなった夫と、家を見限った息子を取り戻そうと、占いや祈祷に全財産をつぎ込んで売春婦になった女のもとに青比丘尼が現れ、導かれるまま家族への執着を捨ててゆくうちに慈悲の心に目覚め、熊野路を巡礼し死期を待つ棄民たちを弔う尼僧になるというストーリー。説経節との類似性を足立は指摘していたが、直接的な影響はないという。説経節のような大衆芸能的身振りもなく、照明を落として蝋燭1本に照らされた会場に、桜井は白拍子の衣装で入場し、話の要所で床に並べた仏具(リンと鈴)を順番に鳴らし、蝋燭の周りを廻りながら、儀式のように声明を歌う。なんとも評価しにくいが、「パフォーマンス」という枠の中でこのような行為が行われるのは類を見ないことは確かだ。プログラムノートでは、フェミニズム・アートとの関連が示唆されていたが、「平野の尼寺や熊野路を訪れて感じた中世の人々が、演奏しているうちに降りてくる」という信仰告白のようなアフタートークでのコメントの方が、彼女の実感に近そうだ。
休憩を挟んでanti-cool『理想の店員』。美術の文脈での「パフォーマンス」のイメージに最も近い行為だが、彼女の活動は当初から身体的行為一筋だという。会場の一角を模造紙で区切り、ヴィデオカメラの映像がそのままプロジェクターから映写される中で行為を行う。カメラブースではマクドナルドの帽子を被り、笑顔を作って「いらっしゃいませ!」を繰り返す。カメラブースを出ると、肉体を酷使する行為の連続。クラウチングスタートから満員の場内を走り回ること2回。脚立を運び込み昇降した後、梯子の間を一段ずつくぐる。走っているうちにポケットから落ちたハンバーガーを客に贈呈したり、脚立を昇り降りするうちに靴下からフライドポテトが出てきたり、といったネタも挟み、行為が一段落するごとにカメラブースに入って「いらっしゃいませ!」 最後は脚立をさらに2台運び込み、3台を重ねてリフティングしたり場内を回ったり。そのまま会場の外に飛び出して走り回り(彼女がカメラブースに入るたびに照明を落としていたスタッフが、道路側のガラスを覆っていたカーテンを開け、走り回る様子を見せる)、やがて疲労困憊して道路に大の字になり、起き上がって場内に戻ってくると、言い澱むオチを期待する客席を裏切って、プロジェクターのスイッチを自ら落として終了。
アフタートークでは、「演技のために力をセーブしていたの?」 という足立の問いに「くたくたです....」と答えていた彼女だが、意味性の次元で笑いを誘わないために「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりでしょうか?」 というような接客のシミュレーションは避け、場内を走り回るパフォーマンスを2回行ったのも、2回目のカメラブース入りではまず疲れた顔を見せ、帽子を被ると別人のような笑顔になるプロセスを強調するためだったりと芸は細かい。客席の真ん中で客の頭越しに相方と水鉄砲で撃ち合うような、制度化されたパフォーマンスの暗黙の了解を土足で踏み越える行為を初期から行っていた姿勢が、特に彼女を選んだ理由だと足立は語っていたが、その一方で新奇なコンセプトの提示だけで終わらせない細部へのこだわりが、彼女のパフォーマンスをユニークなものにしている。
最後は飯村隆彦『ホワイト・カ・リ・グ・ラ・フ・イ』(1967-2006)。日本の実験映画の草分けのひとりである飯村には、近年はデジタル技術を駆使したマルチメディア作品も多いが、この日は1967年の8ミリ作品『White Caligraphy』を、手持ち映写機で上映した。古事記のテキスト1文字を1コマに、フィルムを針で引っ掻いて白文字として浮かび上がらせるという発想自体は珍しくないが、それをコマ止め、逆回転、暗転などの操作を伴って、スクリーン以外の会場の任意の場所に即興的に映してゆくという発想(この作品に先立って1963年から開始)はオリジナルである。最初は壁に張った白模造紙の上に映すが、時々コマ止めして文字をマジックでなぞる。映写位置をなぞるたびに変え、やがて映像は模造紙の枠を飛び出し、側面の壁や客の体がスクリーンになる。立見も出る盛況の中、前の方の客は折り畳み椅子から下りて床に座り、後方の客の視界を作ろうとしたが、飯村はお構いなく、模造紙に映している時もそこを外してからも、後ろからは見えないような床の近くばかりに映写する。「芸術的行為」は観客への配慮に優先するということなのだろうか?
やがてフィルムが終わると、巻き戻して2回目の上映を始めた。1回目は主に向かって左側に映像を映していたが、今度は向かって右側の壁が映写のメイン。主に天井とその周辺を使い、上下方向にも映写位置にコントラストを付けた。やがて、ライトを落とさずにフィルムを止めると、熱でフィルムが融け、沸騰し孔が広がってゆく。2001年6月のMetamkine来日公演は同年最大の芸術体験だったが、映像パートのハイライトは、オリジネーターが既に実践していたとは! それまでは息音を拾う道具でしかなかったヘッドマイクで融けてゆく文字を読み上げる声も流し、1回目の上映における文字をなぞる行為と対をなす。最後は融けたフィルムが炭化するところまで映して終了。ただしアフタートークでは、フィルムが融けたのは予定の行動ではなく、フィルムが引っかかったハプニングだったと明かされた。突然の出来事を積極的に利用できるあたりが、彼の豊富なパフォーマンス経験とオリジネーターの強みを物語る。
企画者が最初、斯界の重鎮が最後に登場し、「音楽」というバックグラウンドを足立と共有する桜井(学生時代はアカデミックな電子音楽を作っていたという)が前半という、単純な並びだったのかもしれないが、素材と設定がパフォーマンスの内容を規定している足立、儀式として決めた所作を厳格に守ろうとする桜井、行為の大枠以外はその場で決めるanti-cool、用意した素材の使い方すら現場の状況に委ねてしまう飯村と、自由度(即興性)の小さい行為から大きい行為に向かって並べたのだとすれば、周到な企画と言えそうだ。パフォーマンスは門外漢の筆者には、このくらいの幅がある方が当たり前にも思えたが、企画者も会場側も予期していなかったという盛況は、各パフォーマーの客筋が殆んど被っていなかったことを意味している。足立が積極的に企画を行っていた90年代後半は、音楽のパラダイムシフトが静かに進行していた時期だった。現在は次なるパラダイムシフトの渦中にあり、足立の眼力と手腕が再び発揮されることに期待したい。
(2006年2月25日 岩本町・Gallery SURGE)
(c) 2006 Yoshihiko NONOMURA