梅田哲也個展『迷信の科学』@オオタファインアーツ |
野々村 禎彦 |
2002年に大阪で再開されたFestival Beyond Innocence (FBI) で、梅田哲也は音楽界にデビューした。セットチェンジ中に客席の脇でソロ演奏を披露する若手のひとりとして、彼はスピーカーユニット数10個を組み合わせたオブジェを担いでふらりと現れた。窓際に腰を下ろしてホワイトノイズを淡々と再生すると、体の動きに応じてオブジェが動くたびに音場が微妙に変わる。音響だけなら退屈する可能性もあるが、珍奇なビジュアルがあるので目を離せなくなる。反応型の即興が大半を占めるプログラムの中では異色の存在だったが、翌年から最終回まで、彼のソロはFBIの正規プログラムの一部になった。美術界では、2006年の英国での展示を経てようやく本格的なキャリアが始まった(2009年3月の大阪での個展のページ参照)が、音楽界ではそれ以前から精力的に活動していた。2006年には早くも、展示の際に収録した音源がImprovised Music from Japan レーベルからリリースされている。
地元大阪には、2007年までFBIが行われていたフリースペースBridgeという、天井が高く空間に余裕があるパフォーマンスに適した場があったが、都内の敷居の低いスペースには、そのような場はなかなかない。彼の東京圏での個展は、まず横浜・ZAIM(福岡・art space tetraでの個展の移設)や水戸芸術館(若手作家紹介企画「クリテリオム73」)で行われた。またこの間、京都・shin-biでの共演を経て梅田に興味を持った大友良英は、都内のライヴでしばしば彼をステージに上げて紹介しようとしたが、音環境と時間枠がオブジェの発する音響と合致した、梅田の本質が伝わる状況を実現するのは困難だった(註1)。現時点で、アンサンブルの中で彼が活かされている記録は、地元で共演歴の長い高橋幾郎、植野隆司、さやとのインスタレーション的な長時間野外ライヴを抜粋収録した《moere》だけかもしれない。ただし大友は、2008年にYCAMで行った『Ensembles』展の東京版『Ensembles 09』を自主企画として行うことを予告している。そこでの新作「休符だらけの音響装置」は、梅田と毛利悠子に梅田のパフォーマンス仲間でもある堀尾寛太も加えた共同制作であり、今度こそ梅田の本領が発揮されることを期待したい。
前置きが長くなったが、この大友の展覧会に先立つ2009年4月25日から5月23日まで、勝どき・オオタファインアーツで、東京都内では最初の梅田の個展が行われた。インスタレーションや立体の展示のために空間の確保を優先したギャラリーは、都内でも山手線東側の交通の便が良くない地域に点在しているが、ここもそのひとつ。草間彌生、さわひらき、小沢剛らを取り扱うこのギャラリーが、2008年に六本木からここへ本拠を移したのは、地の利と取り扱い作家のネームバリューよりも、展示企画力をセールスポイントにしたいという意図だろう。月島の飲み屋街から築地方面に下って月島橋を渡り、通りを一本入った倉庫ビルの一角に業務用エレベーターでアクセスすると、天井の高さはオフィスビル程度の、1辺10数mでコンクリート打ちっ放しの薄暗い部屋が広がる。手前3分の1ほどを受付&オフィスと収納スペースとして用いた残りの空間が展示スペースになる。
よほど運が良くない限り、最初に目に入るのは部屋の中央、柱の奥に置かれた水を張ったポリバケツだろう。数10秒に一度、突っ込まれた塩ビ管から突発的に空気が吹き出し、その瞬間のみ水中の電球が青白く光る。近くに寄って何が起こっているのかを観察すると、バケツの裏で扇風機のフレームの中を羽根がゆっくり回っており、火花が飛んだ瞬間に空気が吹き出すことがわかる。羽根に取り付けた針金と扇風機のフレームの間の通電で弁を作動させ、別室のコンプレッサーから塩ビ管を通じて送り込まれる圧搾空気を止めているが、フレームには凹んだ部分が一箇所あり、針金がそこを通過する0コンマ数秒の間、電気は切れる。すると弁が外れて空気が吹き出し、同じ電圧を逆方向からかけていた電球が光るという仕掛け。火花は針金がフレームを離れる瞬間、μmオーダーの間隔が開いた時に飛ぶ。ソケットの抜き挿しの際に日常的に見るのと同じものである。変圧器を持ち込んでcmオーダーの放電を起こすのではなく、あくまで家庭用100Vの範囲で起こすのがポイント。
周りを見回すと、この仕掛けは至る所に置かれている。ポリバケツの向かい、奥の壁の前には水をなみなみと張ったガラスの水槽が置かれているが、その中にも塩ビ管が突っ込まれ、扇風機の羽根に取り付けた針金で同様のスイッチを作って弁をコントロールしている。ただしこちらは基本はオフ、針金が粉山葵の缶に引っかかる瞬間のみオン。オンになると弁を止めていた逆方向の電圧が打ち消されて空気が吹き出し、扇風機が置いてある発泡スチロール箱の中のラジオが鳴る。この電圧では針金の先が尖っていなければ火花は飛ばない。その代わりに箱の中が光るのは、そこに何かが隠れていることを示すためだろう。すなわち、火花を飛ばすのは回路に必要だからではなく、そこに接点があることを視覚化するためだと思われる。手前の左右の床にも、同様の仕掛けが仕込まれた扇風機が置かれている。いずれも通電が切れる時に火花が飛ぶが、左側では通電が切れた時、天井から蔓にからまったブドウのように吊られた赤紫色の電球が光る。右側では太いスプリングを羽根の代わりに回し、カタカタと音を立てて常時火花が散っている。
やがて急に会場が騒がしくなる。水槽内の白熱電球が灯るなど、いくつかのオブジェが連動して動き始めた。中央のポリバケツの左手奥にも、濁った液をたたえた酒樽があるが、その上に吊られた物干竿と廃液処理用ポリ容器を組み合わせたオブジェが傾き、いつしか液の中に突っ込んでいた。その手前では、電飾を光らせ、スクラッチノイズを発しながらターンテーブルが回り、床に置かれた別のポリ容器が光ってその中を紙や発泡スチロールの切れ端が飛び回り、細長い金属容器もノイズを出しながら光り、ヤカンを乗せたバケツの中も光っている。この一連の動きは10数秒の間隔を置いて二度起こり、最初で何か特別なことが起こっていることに気付き(こちらは数秒間)、二度目に何が起こっているのかを見回すことになる(こちらは数10秒間)(註2)。もちろん、この連動した動きの全貌を一度に把握することは無理で、次に始まったら駆けつけようと頭の隅に入れて再び展示を見ることになるが、こうしてこの展示最長の6分ほどの周期が、その後の鑑賞を縛ることになる。
まだ触れていないオブジェが2種類ある。ひとつは、左奥の壁の隅に浮かんでいる風船。ここ数年の梅田の展示ではお馴染みの、扇風機の風で風船を捕まえる現象である。速く流れる流体中ほど圧力が小さくなることを利用したこの現象自体は、物理教育では以前から知られていたようだが、ライトアップなどを絡めてインスタレーションとして提示したのは彼が最初だろう。今回は扇風機が首を振るのに従って風船が動き回るダイナミックな展示ではなく、小型扇風機上に立てた筒の数ミリ上空にさりげなく浮かぶ、名刺代わりの密やかなもの。もうひとつは右奥の一群のオブジェ。キイキイと音を立てながら動き出してやがて止まる、風向計を思わせる幾何学形状の金属フレーム/それに明滅する光を投げかけるスポットライト/吊るされた錘を引きずりながら、時折動き始めてはすぐ止まる小型扇風機のフレーム。ゆらぎの佇まいは似ているが決してシンクロしてはいない。各々に別な1/fゆらぎ発生装置が取り付けられているのだろうか?
だが、コンピュータの信号で一括管理するような、展示外のブラックボックスを極力用いないのが、今回の展示の基本コンセプトである。この一群のオブジェの動作機構を考えると、この作品の意図に一歩近づける。鍵は右手前にぽつんと置かれた、常時火花を散らしている扇風機のフレーム。モーター用の電源と火花を飛ばす電源が引かれているが、もう一組のケーブルが天井のダクトレールに伸びている。そのダクトレールは右手奥まで繋がって、一群のオブジェの電源はそこから取られていた。火花は常時飛んでいるので見辛いが、そのリズムとスポットライトの明滅のリズムは実は同一だった。このリズムとふたつのオブジェの動きが同期していないのは、通電から動き始めるまでと断線から止まるまでにはオブジェ固有のタイムラグがあり、動くかどうかの電力の閾値も、オブジェにかかる負荷によって異なっているため。謎が解けても展示の魅力は褪せず、むしろこれほどシンプルなメカニズムでよくぞここまで複雑な動きを、とますます愛着が湧く。
続けて、長周期で連動するオブジェ群の謎も解いてしまおう。数10秒の周期なら扇風機のモーターの回転速度を落とせば実現できるが、6分はさすがに無理。コンセント直結のタイマーが、この展示では唯一使われている。約5分オフ、1分オンの繰り返し。だがタイマーだけでは、途中で一度休みが入り、動作時間が毎回微妙に変わるような複雑な設定はできない。そこで、プラスチック筒の内壁半分に金属箔を貼り、針金が内壁に接して動くようにモーターで回し、タイマーがオンかつ針金が金属箔に接している時だけ通電する仕掛けを挿入した。すなわち、タイマーがオンになっても針金が金属箔に接するまで電気は通らない。通電するとポンプがポリ容器の中に酒樽内の電解液を汲み入れ、鹿威しの原理で物干竿が傾き、先端に吊るされた曲尺が電解液に浸かると、一斉動作イヴェントの回路が繋がる。針金が金属箔から外れるとポンプは止まり、電解液は重力で徐々に酒樽内に戻り、やがて物干竿は跳ね上がって回路は断線する。液の戻りはポンプで汲み上げるよりも遅く、針金がもう半周して再びポンプが動き始めた時も液はまだ容器の中に残っている。そこに液が追加されると回路はたちまち繋がり、再びポンプが止まっても、次に液が追加されるまで物干竿は上がらず、回路は繋がったままになる。タイマーがオンになった時の針金の位置によっては液がもう1回注入されることもあり、すると一斉動作イヴェントの時間が伸びて前回のイヴェント終了からの経過時間は7分を超える(その分、次回のイヴェントまでの待ち時間は短くなる)。もちろんタイマーがオフになると、液はポリ容器が完全に空になるまで流れ出す。
この仕掛けの針金と金属箔の間でも火花は飛んでいるが、ポンプの動作には影響を与えない。火花が飛ぶ場合と飛ばない場合があることで、タイマーの存在を間接的に推測させるための仕様だろう。このオブジェ群でも他のオブジェ群と同じく、モーターで駆動される針金の接点が回路の動作に本質的な役割を果たしており、火花を飛ばす(あるいはライトの明滅と連動させる)ことでその存在を問わず語りに知らせる。これだけ統一されている以上は、唯一残ったオブジェ――受付の机の上に吊るされた、ハンガーとモビールの間の子のような形のライト――も、同じ原理で動いているのだと思われる。ファミレスのレシート立てのような灰色の小筒が天井から吊るされ、そこから左右に伸びる腕の先の電球が各々独立にランダムに明滅し、オブジェも時折左右に一見不規則な周期で傾く。電源ラインは2本筒に入っており、一方は筒内のモーターを回して2本の針金と錘を回転させ、もう一方が電球の電源。筒の内壁に斑状に貼った金属箔と針金が接するかどうかで電球が明滅し、錘の回転に応じて左右に傾くのだろう。全体が傾くと錘と鉛直方向の角度が瞬時に変わるため、錘自体の回転速度は一定でも全体の動きは結構複雑なものになる。
素材をなるべく限定した上で多様に展開する作品が優れている、という芸術観は近代西洋古典音楽、説明抜きでも本質を掴める契機を内在した作品が優れている、という芸術観は米国実験主義音楽に由来し、梅田のバックグラウンドが音楽にあることを示している。美術作品としては、連続的に発せられる微弱な音響・間歇的に発せられる印象的な音響、長い周期で稀に発せられるノイジーな音響が時間的にも空間的にも巧みに配分され(例えば、音響が微弱なオブジェほど、反響音が加わる部屋の隅に置かれている)、視覚的な要素も十分に考慮されている。ラジオ再生と同時に空気が吹き出す水槽の中で、長周期で動くオブジェ群と連動して電球を点けている理由も、電球の点灯中に空気が吹き出し、壁に広がる光の像が激しくゆらめいた時に実感できた。水槽が巨大な杯のような形なのも、光の像を広げるためだ。水槽のみグループ内の他のオブジェから離れているのは、明滅するスポットライトを光の像と呼応させるためだろう。酒樽・物干竿・曲尺・鮮魚のトロ箱などの廃品を会場の周辺で拾って用いていることに、「サイトスペシフィック」というコンセプトを読み込むことは可能だが、そのコンセプトが先に立つわけではない証拠に、個々のオブジェには以前の展覧会で制作したものの流用も少なくないという。
最後に、『迷信の科学』というタイトルをどう捉えるか。ギャラリーが配布するフライヤーには、ギャラリーとしての解釈が示されている:「(前略)それは解釈や意味を求める必要のない時空であり、あたかもアートや作品でなくとも平気な顔をした交感するためのインストルメントであるかのようです。迷信とはわれわれが信仰してきた美術という言説なのかもしれません。」実際、このギャラリーの取り扱い作家たちは大なり小なり美術という制度を問い直すスタンスを持っている。彼らの梅田への期待の高さは、まだ取り扱い作家にもなっていない彼に、2009年のART@AGNES出展スペースをすべて任せたことからも窺える。彼らがこのタイトルをそう捉えたくなる気持ちはわかるが、果たしてそうなのだろうか?
この展示を素朴に眺めた時、まず浮かぶ言葉は「霊屋敷」だろう。薄暗い部屋のあちこちで起こる怪奇現象。その組織的な動きは、背後で操っている「霊」の存在を感じさせる。それを「1/fゆらぎ発生装置」や「コンピュータによる一括制御」と解釈する態度は、あるブラックボックスを別なブラックボックスに置き換えたに過ぎず、相変わらず「迷信」に囚われている。「科学」と呼べるのは、目の前にあるものだけを合理的に解釈する態度に他ならない。美術の文脈に戻ると、これこそがモダニズムである。現代美術ギャラリーがモダニズムをいつの間にか「美術」から排除しているようでは、前近代的な意味性やアニミズムがメディアアートの皮を被って跋扈するのも無理はない。梅田は一貫して、そのような状況に静かに異議を唱えてきた。彼の作品こそが本来の意味での「現代美術」であり、『迷信の科学』というタイトルは、そのような文脈で初めて意味を持つのではないだろうか。
(註1) 2009年4月に大友が新宿PIT INNで企画したライヴでは、梅田の美術界でのサウンドインスタレーション仲間の毛利悠子を共演者として選び、大友は客席後方でギター弾き語りや打楽器演奏を行うBGM役に徹して、梅田を引き立てようとした。だが、毛利が大友の通常の演奏と拮抗する音量の装置を組み、梅田が会場に合わせてオブジェをダウンサイジングしたら、彼の音響は殆どマスクされてしまった。立見客でごった返す会場ではインスタレーションの視覚的側面も、客席中央のテーブルにオブジェを並べて操作した彼の半径数メートル以内に座った幸運な観客にしか伝わらなかった。なお、このセットを含む一連のライヴには、『Ensembles 09』展の前哨戦という意味も込められていたことを付記しておきたい。
(註2) このオブジェの動作が意図的に作られたものであることは、初日のパフォーマンスで確認できた。当初アナウンスされた開始時刻(通常のギャラリー営業終了時刻)を少し押して、連動するオブジェのノイズが静まったところで梅田はおもむろに登場し、創作楽器を吹き始めた。廃材に孔を開けてリードを取り付けた笛のようなものだが、片手では持ち辛いサイズなので低音から高音までまんべんなく鳴り、水音やラジオの再生音は演奏中は殆ど聴こえない。そして再びオブジェの連動が始まった時に、一礼してあっさり終了。オープニングパフォーマンスと言うからには、当然30分ないし1時間は演奏が続くものと身構えていた人々の間にざわめきが広がる。するといったん回路が断線してオブジェの動きは止み、梅田は凍り付いたようなポーズを取る。次は一体何事が、と人々がかたずを呑んでいるところで再びオブジェが動き始め、緊張が解けた瞬間にもう一度頭を下げて去ると、こいつは一本取られたという空気が広がる。そこに飲み物や軽食が供されると雰囲気は既にオープニングパーティになっている。パフォーマンスの開始時刻を告知すれば関係者はそれを目指して集まってくるので、早々に切り上げればわざわざパーティを告知しなくても良い、というのは粋な判断だ。またこういう形にすることで、パーティの開始を告げてから演奏を始めても人々は話に夢中で誰も聴いていない、という社交の場に特有の問題もおのずと回避される。
(c) 2009 Yoshihiko NONOMURA