『カメラを持った男』演奏付上映(音楽:鈴木治行) |
野々村 禎彦 |
本公演は、鈴木治行がサイレント映画にライヴ音楽を付ける企画の4作目。これまで、『ノスフェラトゥ』『戦艦ポチョムキン』『裁かるるジャンヌ』と、映画史上屈指の名作ばかりが取り上げられてきた。2005年1月の『裁かるるジャンヌ』の上演は、本サイトでも扱った。今回のお題は、ドキュメンタリー映画の先駆者のひとりとして知られるソ連のジガ・ヴェルトフの極めて実験的な作品『カメラを持った男』(1929)。映画カメラマンの撮影風景の記録という体裁を取っているが、実は通常のドキュメンタリーではない。冒頭は、オーケストラ生演奏付映画上映会が開場し、観客が着席してゆく場面を細かいカット割りの連続で見せるが、畳まれていた椅子がひとりでに下りる実写コマ撮りアニメーションを繰り返し挟んだ時点で既に、「現実の出来事を記録し、編集した映画」という定義からは明白に逸脱している。タイトルロールでは、「ストーリーを説明する字幕も、登場人物の演技も一切含まない、文学や演劇とは異なる映像独自の言語を求めた作品」だと宣言され、ヴェルトフのクレジットは「作曲・指揮」となっている。
公演前の記事で鈴木も書いていた通り、この作品のモンタージュの基本線は状況説明ではなく、緩やかなイメージの連鎖と変容を見せることにある。だが、ストーリーらしいストーリーのない映像に逐次的に音楽を付けるのは通常の素材では難しい。この映画に音楽を付ける従来の試みでは専ら、ある特徴的なシーンから次の特徴的なシーンまで、一種類の音楽で押し通していた。これらの中では最も秀逸なThe Alloy Orchestraの音楽(ASIN: 6305131104)は、ミニマルミュージック(特に70年代のフィリップ・グラス)とエレクトロニカの記憶を駆使するが、機械的な反復ではなく、映像の揺れに応じて音色やテンポを微妙に変えたり、リズミカルな動きにはビートを当てたりする。イメージの連鎖は映像言語として完結しており、音楽の役割はそれ以外の側面を抽出することだという判断なのだろう。だが、このようなアプローチでは掬い取れない重要な側面がある。イメージの連鎖は「カメラマンが撮影した映像」をつなぐ原理であり、「撮影中のカメラマンの映像」は別な原理でつながれている。自動車が底を見せて走り去る場面の直後に、道路に腹這いになっていたカメラマンが起き上がるような、説明的なモンタージュはむしろ例外的だ。カメラマンが煙突に登る場面や汽車のステップにしがみついてカメラを構える場面が唐突に挿入され、数十分後にようやく、煙突の天辺から撮った街の全景や、走行中の汽車の車輪が映し出される。このような時間差を含むモンタージュが、エイゼンシュテインの諸作品との最大の違いである。
鈴木の音楽は、このような映像言語にぴったり対応している。これは、映像に音楽が逐一対応しているという意味ではない。イメージの連鎖には即物的なサンプリング音を当て、機械などの運動には動きのリズムに合わせた音響を選ぶが、それ以外の場面ではサンプリングされた現実音を時間差で使うことが多い。例えば、タイピングの場面の数十分前に、動きのリズムに合わた音響としてタイプを打つ音を使う。サンプリング音の持つ強い意味性を生かして、時間差を含むモンタージュがこの映画の本質であることをスマートに表現した。これだけでは、1時間を超える上映の緊張感を保つには起伏が乏しいと思われるかもしれないが、そこまでの映像を高速で切り換えながら重ね合わせる場面が十数分ごとに訪れるので、そのたびに重層的なノイズを重ねてクライマックスを作れば、おのずと流れに濃淡が付く。過去3回の鈴木のライヴ映画音楽企画では、『ノスフェラトゥ』は鈴木が操作するサンプリング音と電子音のみで上演されたが、『戦艦ポチョムキン』には打楽器トリオとアマチュアアンサンブル(マイゼル版の自由な編曲)、『裁かるるジャンヌ』にも3人の打楽器奏者と、生音が使われてきた。これは企画者の要請だったのだろうが、今回は久々に鈴木ひとりによる演奏となり、音楽は過去の上演を圧倒した。「サイレント映画に付ける音楽」の常識を超えた鈴木の音楽をライヴで実現できる音楽家は、今のところ彼自身だけなのかもしれない。
ただし、The Alloy Orchestraの音楽には鈴木の音楽にはない美点がある。軽い音色の打楽器を多用した肩の力の抜けた音楽は、遊び心満載の映画のスタンスにふさわしい。画面を分割したり多重露光したり、コマ撮りアニメでカメラを生き物のように動かしたり、この映画を観ている観客の映像を挿入するメタレベルの自己言及を行ったり、といった試みは「実験」と言うよりは「遊び」なのだが、『裁かるるジャンヌ』の音楽同様、シリアス一辺倒なアプローチを取る鈴木の音楽からは、この感覚は聴き取れない。だが、鈴木の音楽とThe Alloy Orchestraの音楽の「いいとこ取り」がベターだとは限らない。映像は一瞬でイメージを伝えられるが、音楽には一定時間の持続が必要だ。この映像に即して音楽の硬軟を変化させると、この映画には全くふさわしくない「ポストモダン」な音楽になってしまう。むしろ、どれだけ多様な音楽を受け入れられるかが、サイレント映画の豊かさの指標になるのではないか。サイレント映画の真価は、複数の映画音楽を伴ったリリースを通じてこそ理解されるだろう。映像の構造と強度を音響現象に変換する鈴木のアプローチは、サイレント映画に付ける音楽の新しいプロトタイプとして、広く聴かれる価値がある。何はともあれ、この企画の継続を望みたい。
(2006年1月7日 多摩センター・パルテノン多摩小ホール)
(c) 2006 Yoshihiko NONOMURA